会員の活動報告


フランス(パリ、リヨン、マルセイユ)における講演(国際交流基金主催)

恩田侑布子 「樸(あらき)」代表

パリ到着

2014年12月4日パリ・シャルルドゴール空港に一人降り立った。今回はパリ、リヨン、エクスマルセイユ、三都市で4つの講演会が待っている。

 タクシーでパリ日本文化会館に向かう。この一月、初回のフランス講演に来たときには裸木だった街路樹に、今はまだかろうじてマロニエの葉が残っている。それがうれしい。茶畑だらけの静岡市に生まれ育ったせいか、木が見えないと不安になる。照葉樹林帯の湿潤温暖な風土が骨の髄まで染込んでいるらしい。

 エッフェル塔が前方に現れ、パリに来た実感が涌く。パリ日本文化会館は、エッフェル塔の膝下で、しかもセーヌ河畔という好立地にある。現地スタッフの川島さんに11ヶ月ぶりの久闊を叙し、2週間を寝起きすることになる7区のアパルトマンに案内していただく。

 タクシーを降りると映画の画面の中に迷い込んだよう。通りの両側はクラシックな5,6階建の石造建築群で、日本の都市のような凹凸がない。それが街路に安定感と堅牢感をもたらしている。逆にいうと、日本の街並の何でもありの雑駁さは、照葉樹林帯という風土に根付いていることに気付かされる。椿や椎や樫など、クチクラ層の厚い光沢ある葉が冬でも生い茂るなかに住みなしてきた日本人には、凸凹こそ自然な居心地のよさなのかもしれない。アパルトマンでは、まず防犯の厳重さに驚かされた。電子キーをかざすと、ビル玄関のドアが開く。しかし、エレベーターに乗るためにはまだ関門がある。再び電子キーが必要だ。「ご丁寧な」と思っていたら、自分の部屋の鍵にも泣かされることになった。五本の頑丈なステンレスのパイプが束になったチーフキーの下に、回転式のサブキーがあり、さらに第三の鎖の安全キーまである。部屋に入るときも一ひねりでは鍵が開かない。移民族国家のパリ市民が個人の生活を守るために設けた鉄壁の構えは、板戸や障子戸一枚のあばら家住まいからは想像もできない。スーパーに買い出しに行く途中、ライフル銃を抱える男をみつけ、ドキッと心臓が鳴った。直後、アーミー服の警官とわかる。帰国二週間後にシャルリー・エブド襲撃事件が起きた。人種の坩堝の街に、寒さだけでは無い緊張感があるのは肌に感じられた。

 街を歩いていて、美術品さながらの靴やハンドバッグ店のウインドウに、ヨーロッパの皮革文化の奥行きと富裕層の厚さを感ずる一方、乞食の多様なあり方にも目を見張った。白人系は、地下鉄にマイク・スピーカーを持ち込む歌姫だったり、サンジェルマンの歩道に宇宙服まがいの衣装を子に着せて人目を引くファッショナブルな乞食だったり、驚くばかりビビッドだった。だが、イスラム系は、ポンヌフの橋の袂でも、オルセー美術館の前でも、黒ずくめの服でじっと塑像のようにうずくまり、実入りもごく少ないようだった。

講演Ⅰ コレージュ・ド・フランス

 12月9日17時~19時。コレージュ・ド・フランスで「俳句 他者への開け」を講演する。フランスが誇る大学を超えた大学の頂点という。日本に相当する高等教育機関はないのだと聞き、ちょっと緊張したが、雰囲気に官僚的なところはなく安堵する。コレージュ・ド・フランスの教授で、東洋思想の大家ジャン・ノエル・ロベール先生直々の過分なご紹介に預かる。ロベール先生の高弟フォーリ・ジュリアン先生の品位ある翻訳に大いに助けられる。「みなさん、ツウですよ」と耳打ちされた聴衆30数人が膝を乗り出して聞いてくれる。 まずは俳句の三本柱である定型・季語・切れについて。次に俳句の背後にある思想を話す。佛教では『観無量寿経』から『成唯識論』へ、西洋ではオスカー・ワイルド、シャルル・フーリエ、セルバンテスなど、愛する面々に登場してもらう。人間の悲哀のもつ可能性と「さび」の美に触れる。俳句の「切れ」の淵源を『荘子』の万物斉同の思想に探り、東洋の「無」と言葉との境界に横たわる言い得ないものを語るため、持論の「俳句拝殿説」を援用する。後半は、PowerPointの景色を味わいながら、自作の俳句から日本語の特質や日本文化の実際に話を進めた。講演後、館内にカクテル会場をご用意いただき、聴講者の温かく熱い反応に包まれたことも感激であった。

 翌日10日、フォーリ先生から以下のメールをいただいた。

「恩田様
昨日、お疲れ様でした。
とても興味深いご講演でお供させていただけて、非常に光栄でした。拙訳で美麗なお言葉を損なっていないかと心配しながらも、来て下さった方々はみんな喜んで下さっていたようですので、少し安心しました。
ロベール先生も、コレージュ・ド・フランスの水準に合った、とても刺激的で示唆に富んだ素晴しい講演だと褒めていました。
さて、大変遅くなりましたが、添付ファイルにてまとめた芳詠の仏訳をお送りします。
また何かご質問ありましたら、いつでもご連絡下さい。
宜しくお願いいたします。
フォーリ・ジュリアン」

 書簡文においても日本人顔負けの繊細さである。日本思想の気鋭の学究に、このあとの講演も終始通訳をしていただくことになった。ちなみにフォーリ先生は30代後半くらいの貴族的な風貌の方で、安曇野産の美人の奥様との間に、絵に描いたような双子の男の赤ちゃんをもうけられた。その写真をチラッと見せて下さった先生のお顔は、万国共通の新米パパそのものでステキだった。

講演Ⅱ ジャン・ムーラン・リヨン第三大学

 12月10日、パリから新幹線でリヨンまで延々と平原を走った。1月に国際俳句交流協会創立25周年大会がベルギーでのブリュッセルであり、参加のあと、パリまで乗ったユーロスターの車窓風景と見分けがつかない。どちらもわたしの眼には北海道さえ小さく思える大平原に映る。よく見ると牧草地や畑、農地であることに気付く。文化立国フランスは豊かな農業国でもあり、カロリーベース食糧自給率(2011年)はフランス129%にたいし、日本39%という。今朝アパルトマンで、雑炊に刻み入れた太葱が蘇る。刃を入れた時の、弾き反されそうな巻の密度と剛健さに比べると、日本の根深葱たるや、浮世絵のなよなよした女さながらに思える。葱ひとつに里心がついたのだった。

 リヨンに昼着き、リヨン第Ⅲ大学の日本語学科でこの春まで日本語を教えていらした在仏50年近い山口先生に市内をご案内いただく。ローマ時代のコロッセウムに当時の市民階層の豊かさを想像する。こぬか雨降る旧市街地の石畳の上で、突如デジャビュ感に襲われた。いわゆる西洋崇拝者でもないのに、いいようのない懐かしさは、いったいどこから湧いて来たのだろうか。永井荷風がいりびたったというキャバレーが雨に潤んでいる。受験勉強もせずに『墨東綺譚』から『ふらんす物語』へと読み進んだ高校時代を思い出して、甘酸っぱくなる。「今は、公の建物です」と山口先生が教えてくれたが、かつての遺伝子をライラック色の灯がとどめて、いかにもフランスの地方都市らしい風情だ。5分も歩けば『星の王子様』のサン・テグジュペリの生家があり、目と鼻の先に遠藤周作の下宿があるのも一興だ。夜は小林龍一郎在リヨン領事事務所長やリヨン短歌会の石田氏と歓談。リヨン名物・鱈のマロンソースの味は、リヨンの街並の色彩のエレガントさと響き合う。フランス人のご家族をお持ちで、土地の歴史に血を通わせてくださった山口先生が、ぽつりとつぶやかれた言葉が胸に残った。

「日本人がフランスで暮らすってことは、ずっと海の底に潜って息してるようなもんですよ」

 翌朝10時15分からジャン・ムーラン・リヨン第三大学で講演を始める。ジャン・ムーランは第二次世界大戦中のレジスタンスの戦士である。ナチス・ドイツに抵抗し拷問死した史実と功績を称えて大学の名称としているという。自由が座視して手に入るものではないという、歴史を銘記する姿勢に敬意を覚えた。「第三」は、行政上の区分ではない。法学部と抗争の歴史があり、自ら名告った自尊の独立名と山口先生に教わる。学部生は試験期間のため来られないが、一般市民の方が前列からぎっしりと詰めかけ、「病気で来られない友人に聞かせたいから録音してもいいか」という熱意ある質問をフランス女性からのっけから受ける。

 終わった後も質問攻めにあう。小林所長さんのような日本文化を草の根からフランスに広めることに真から熱心な外交官にリヨンでお会い出来たことも収獲だった。

 熱気あふれる質問が続き、予想以上に好評だった。つぎのような身に余るアンケート回答をたくさんいただき感謝のほかはない。

◎「情熱的で感動した。日本の芸術美学についての知識を深める良い機会になった。後で勉強したいから講義内容を資料で配付してほしい。日本文化に関わるこうした講演会をもっと実施してほしい」

◎「別の世界に誘われたかのような感覚を覚えた。非常に情熱に溢れた恩田講師に感謝したい。俳句の選び抜かれた言葉、日本文化、本当に素晴しい時間だった」

◎「俳句朗読がとても生き生きしていた。熱意に満ちた選句、言葉の選び方、評論、とても充実した講演会だった。オーガナイザーにも感謝」

講演Ⅲ エクス・マルセイユ大学

 南仏でも思いがけない出会いに恵まれた。リヨン発の新幹線が1時間以上遅れ、エクサンプロヴァンスに着いたのは闇の濃い7時過ぎだった。寒さと疲れと心細さは、ファベネック・由希さんに駅舎で迎えられるや、たちまち吹き飛んだ。由希さんはエクス・マルセイユ大学の日本語学科で教鞭を執っておられる。一見フランス人。口をきけば紛れもない日本人。おお、すごい!ハンドル捌きも安心そのもの。パリ21区として富裕層に親しまれているという中心街を案内してくださる。泉と苔の街。日本でも大台ヶ原や青木ヶ原樹海まで苔を見に行く苔フェチにはこたえられない。しかも街路樹のみならず邸宅の塀越しに聳える木立も、亭々とした大木が多く、ノエルのイルミネーションの合間に深い陰翳を織りなす。イエスさま生誕の光景を人形で表わすクレッシュ・ド・ノエルが、噴水のほとりにも飾られていた。いかにも緑ゆたかな南仏の旅情である。
「イエス様がお生まれになったのは厩の藁の上と思っていましたが、苔の上だったんですね」

 翌朝、エクス・マルセイユ大学で言ったら、教室中が笑ってくれた。アルノー・ブロントス先生の逐次通訳も温かい。雨でも乾燥したパリの大気と違って、やさしい湿度を肌に感じる。

 12月12日は9時~11時の講演予定である。日本語学科の学部生と大学院生数十名が聴いてくれる。前列に半袖の男子もいて若さに煽られる。講演が終わったとたん、質問の挙手が花火のように上がった。テキストとして持参した『仏訳30句』のサイン攻めにもあう。メラニーさん、サロメさん、マリナさんという熱心な日本語学科院生の美女トリオに、
「日本語が詩のように歌のように美しく聞こえました」
といわれ、根っからの音痴は、幸福指数が限界まで振り切れる。しかも由希先生と同僚の先生が、大学時代にフランス語を教わった山崎剛太郎先生のご息女とわかり、山崎先生に再会叶ったかの感激であった。

 終演予定が、質問・サイン攻めで大幅に遅れ、午後2時を過ぎ、ファベネック・由希さんが自宅に招いてご馳走してくださることになった。車中、なだいなださんの息女であることを明かされ、吃驚する。素晴しいバイリンガルでいらっしゃるわけであった。

「数カ国語を話す夫はいま、ラテン語の講座に通っているのよ」

 エクス郊外にある邸宅の庭で、この頃困っていることがあるので、見て確かめてほしいという。

「ほら、ここよ。どう思います」

 マチスの絵のような色彩でコーディネートされたテラスから出て、由希さんが庭の一角を指さした。

「なるほど。まちがいなしね」

 モコモコたくましく掘り返された土。

 静岡市の片田舎にある茅屋は、勝手口の戸を開けると、そこが猪のヌタ場だ。毎朝、縄文土器さながらの大地の踊りを見ているが、フランスに来てまで、猪の庭を歩こうとは思わなかった。翌日のパリで、やにわフランスの猪を食べる気になったのは、ファベネック・由希さんの邸宅のイメージに預かるところが大きい。彼女は、チキンとトマトの素晴しく美味しい料理をご馳走してくれた。マリア様のシールのついたスペイン産蜜柑を添えて。一口で、「ああ、フランス式スープお寿司」と思った。帰国後、すぐにわが家の定番料理になった。(http://www.bunkamura.co.jp/bungaku/topics/2015/01/post_4.html
簡単で美味しく見栄えのするスープお寿司をつくる度に、日本語学科の熱意あふれる教室と、由希さんのハンドルの先にかがやいていたサント・ヴィクトワール山が浮かび上がり、感謝の気持で一杯になる。

講演Ⅳ パリ日本文化会館講演④

 今回最後の講演は、12月13日パリ日本文化会館で15時~17時の予定である。同会館での講演は、じつは2度目だ。約1年前の1月24日、ベルギー・ブリュッセルで行われた国際俳句交流協会創立25周年記念シンポジウムに、ファン・ロンパイEU大統領や有馬朗人会長の講演をお聴きしたく、事務局の藤本さんの懇切なご案内もあって一人で参加させていただいた。王立美術館を楽しみ、翌日の25日ユーロスターでパリに着いた。28日、サンジェルマン・デ・プレのカフェ「ドゥマゴ」で行われた第81回ドゥマゴ賞の選考会と授賞式に日本の第23回Bunkamuraドゥマゴ文学賞授賞者として立ち会い、翌29日に「感情の華 恋と俳句 日本文化の土壌」を初演させていただいた。思いもかけない好評に浴し、今回、国際交流基金のパリ日本文化会館客員教授として招かれ、フランス三都市で新たに四講演をさせていただくことになった。1月は、急に講演の話がまとまったこともあり、聴講者は50名ほどだった。ところが今回は、パリに着くや、
「恩田さん、120席の予約が2週間も前に埋まって、お断りしてる状況なんですよ」
耳を疑った。日本の俳句は、パリ市民にそんなに人気があるのだろうか。不思議だが、うれしい。ところが生憎なことに、13日当日は冬のパリには珍しい本降りの雨になった。底冷え、どしゃ降りの二重苦をついて、わざわざ俳句の話なんぞ聞きに来てくれる人がいるかしら。ガラガラかしら。アパルトマンから出勤したら、またも驚き。すでにホールはごった返していた。

 講演は、コレージュ・ド・フランスとは別の「花の俳句 日本の美と時間のパラドクス」である。枕として、俳句9句を日本語とフランス語で交互に朗読パフォーマンスする。初句は、日本から持参した銀色の鉦と鈴を、ゆっくりと響かせて開幕した。

春陰の金閣にある細柱

恩田侑布子

Ombres printanières
Sur les frêles colonnes
Du Pavillon d'Or.

 茅屋の近所、卒寿のおばあさんから譲ってもらった梅花講でつかう楽器の音色は、一瞬にして満員の聴衆を日本の風土に引き込んでくれた。2句目からは、フランス文化への敬意をこめて、高校時代から大好きなサンソン・フランソワ演奏のショパン「雨だれ」をバックに流す。感情を込めて朗読すると自然に身体がうごいてフリのようになる。フォーリ・ジュリアン先生とマブソン青眼さんに翻訳していただいたフランス語俳句は、華やかで立体的だ。日本語はやさしくなだらか。

 講演に入る。振り出しは、十代で耽読したフロベールの『感情教育』をPowerPointで映す。
「小説の後ろに付いていた19世紀のパリの地図を片手に、フレデリックとアルヌー-夫人を偲びながら歩いています」

 にわかに聴衆との距離が縮まったような気がした。『徒然草』の「この一矢に定むべし」に始まり、『古事記』『万葉集』『伊勢物語』『風姿花伝』へと、桜と富士を軸にして、芭蕉の句から、川端康成・芥川龍之介の「末期の眼」に至る。木花之佐久夜毘売の神話以来、日本の美と時間意識の特質を探る1300年の精神の旅をご一緒していただく。

 どしゃ降りを衝いて来てくださった満員の聴衆の熱意はものすごかった。会館スタッフに、「電気が切れますから続きはロビーでお願いします」と追い出されるほど質問攻めに合う。「枕詞」「掛詞」「切れと切れ字」など、日本ツウの市民の深い質問も相次いだ。フランスと日本などという二分法は、もはや精神文化の地平においては成り立たないことを痛感した。いや、フランスをはじめ西欧文化圏の人々こそ、近代的自我を超えた俳句のリアルな思想を、いま本気で求めているのだ。俳句の実作を通して、また評論を通して、期待にリアクトしていきたい。

 後日、パリ日本文化会館の川島様から送られたアンケート回答は身に余るものだった。なかに他の講演会場には見られない日本を母国とする方の回答があった。感謝とともに紹介したい。

◎「日本の風土、文化の中で育った者には客観的にとらえがたい日本の美を時空を縦横自在に行きつ戻りつ先人の言葉をひろって編み上げた講演者の力量、俳人らしい言葉の鋭い感性、凝縮された深い余韻を残す講演に感銘を受けた。」

» 講演事業アンケート集計、所感

謝辞とまとめ

 2014年1月と12月、国際俳句交流協会の一員として、国際交流基金のお力で、パリを含む3都市で5回もの講演をさせて頂いたことは望外のできごとだった。コレージュ・ド・フランスのロベール先生、翻訳者のフォーリ・ジュリアン先生はじめ、ファベネック由希様、川島恵子様、アルブイ共未様など、ご支援賜った方々と、拙い話を熱心に聴いてくださったすべての聴講者に心から感謝の意を深くしている。ロベール先生にご推薦いただいた末木文美士先生と、フランス講演を用意してくださった東急Bunkamuraの皆様、資生堂名誉会長福原義春様、そして白玉楼中の人となられた松本健一先生にも衷心からお礼を申し上げたい。

 俳句という詩は、弱さ・小ささ・愚かさ・淋しさを自覚しつつ自然と共に生きる人間の価値を新たに発見させてくれる。俳句の底流にある思想は、崇高長大なものに価値を置いてきた物質主義の西欧文明をゆるやかに回転させてゆく新しい扉となり、地球をおもやいしあう共感をひろげてゆくのではないか。そんな手応えが感じられた講演旅行だった。パリを発つ前に、グラン・パレで「北斎展」を見られたことも、日本文化の底力を自覚するいい体験になった。俳句とその思想は、フランスでもベルギーでも、ますます世界に深く大きな輪をひろげていくだろう。2015年6月、東京の麻布で、ファン・ロンパイ元EU大統領は、「わたしたちは自然よりずっと小さな存在だということを俳句は教えてくれる」とおっしゃった。至言に共感し、足元から俳句の感動の輪を拡げてゆきたい。

(2015年8月30日・記)