haiku・つれづれ
haiku・つれづれ - 第39回
アートと俳句との対話
小野裕三+リサ・ミルロイ
(俳人とビジュアルアート作家の会話)
小野裕三
リサ・ミルロイは視覚芸術、私(小野)は俳句というように、それぞれ芸術的な背景が異なります。リサは、ロンドンとケントのリッド・オン・シーを拠点とする英国系カナダ人アーティストで、静物画が専門です。彼女は、ロンドンのホワイト・コンデュイット・プロジェクトで開催された現代アート展「SPLASH! The Haiku Show」に参加した後、国際俳句協会のウェブサイトにて私が実施したアンケートでは俳句への洞察力に満ちた見解を披露しました。このアート展は、視覚芸術の作家たちが俳句にどう呼応するかを探るものでした。一方、私はロンドンの美術大学の修士課程で学び、複数の刊行物に美術関連の評論を発表してきました。そこには、俳句への関心にも触れた日本の芸術運動「もの派」に関するエッセイも含まれています。私は俳人の視点から現代アート全般に深い関心を持っています。
私からの呼びかけで、最近リサと私はオンラインで会話を交わしました。リサはリッド・オン・シーにある彼女のスタジオから、私は川崎にある自宅から参加し、俳句と絵画というテーマで90分間語り合いました。この会話を前に、私は絵画と俳句という二つの異なる思考・制作分野のギャップを埋める考え方が必要であると思い、複数の概念を用意して議論を導こうとしました。しかし、私たちの会話の冒頭で、リサは次のようにコメントしたのです。
「この絵画と俳句をめぐる会話に私を招くにあたり、あなたはこの二つの芸術形式の間には隔たりがあるとし、それを橋渡しする必要があると言いました。しかし、私は、長年の日本に関する考察と定期的な訪問を通じて、他の日本文化とともに俳句を高く評価するようになり、それが私の静物画に対するアプローチに多大な影響を与えています。それに基づく私なりの文化観に照らすと、私にとっての絵画と俳句は別々の分野に属するものではありません。それらの素材や構成の仕方、考え方、その結果生まれる作品には大きな違いがあるものの、二つの間には自然な流れと親和性があるように感じます。ご存じのことと思いますが、私が1980年代から展開してきた絵画のモチーフには、広範囲にわたる日本的なイメージが盛り込まれています。浮世絵や茶碗、着物、生け花に至るまで、それぞれに異なる工芸の伝統を持つ多様な日本の芸術形式を体験し、そのすべてを描いてきた結果、それらは、その他の文化的な知識とともに、私の作品を形作り豊かなものにしているのです」
「黒」2012
キャンバスに油彩
福岡市美術館
会話が進むにつれて、リサと私は、絵画と俳句というそれぞれの分野で、共通の芸術的な関心を抱いていることに気づきました。私たちは、二つの芸術形式や私たち自身の間の溝を埋める橋という概念を放棄して、代わりに共通点を通して違いを探り合うことにしました。最後に私たちは、この文章をインタビュー形式ではなく、「私たち」を軸にすえながら、会話の中に登場したさまざまなテーマに焦点を当てたエッセイ形式にすることで合意しました。
現在という瞬間
絵画であれ俳句であれ、どのような芸術でも創作し鑑賞する上で鍵となる経験は今この瞬間に対する感覚の高まりであり、それこそが完全に生きているという爽快な経験を生み出すことを私たちは確認しました。
リサは言いました。
「絵を描いているときや絵を見ているとき、現在という瞬間を非常に敏感に感じ取ることができ、空間が広がっていきます。絵を描くことで、過去を後にして未来へ突き進むという絶え間ない逃避状態から解放され、拡大する現在の感覚が私の中に根づくように感じられるのです。この現在という瞬間に対する感覚の高まりを感じながら絵を描いている間、私は、いかなる感情にも遮られない、驚くべき創造的活力が高まるのを感じ、絵を描くという行為そのものに集中できます。こうした状態になると、たとえ取り組んでいる絵の内容がどれほど苦痛に満ちて不安を抱かせるものであっても、私はほとんど感情的な痛みを感じることはありません。私の頭の中では苦痛の経験についての知識や記憶が働いているのかも知れません。それでも、絵の具の物質性から得られる想像力と喜びを通じて、私は絵を描く行為そのものを心から楽しみ、それに集中するのです。これこそが、私に生き生きとした自由の感覚をもたらします。この充満した現在という感覚のもう一つの特徴は、二重性、つまりは非生命や死を意識することで逆に生が研ぎ澄まされるという点です」
「絶え間ない日の光」2005
キャンバスに油彩とアクリル
the artist and Kate MacGarry (ロンドン)
私は言いました。
「あなたの発言は俳人の高浜虚子の言葉を思い起こさせます。日本の近代俳句史に大きな足跡を残した虚子は、俳句は<極楽の文学>であると指摘しました。というのは、小説家が悲劇を悲劇として、つまりは人間が作り出した地獄を地獄として描くのに長けているのに対し、俳人は人間の悲劇のあり方を知り関心を持つものの、例えば今この瞬間に咲く美しい花を通してそれを詠みます。私にとって、これこそが俳句の真髄であり、高浜虚子のこの言葉は私の心に深く響くのです」
精密さとタッチ
現在に対する感覚の高揚との関連で、絵画と俳句の形式的な側面について考えをめぐらせた結果、私たち二人は、私たちが称揚するアート作品の重要な特徴として「精密さ」と「タッチ」があるという結論に至りました。この点を踏まえた上で、お気に入りの作品について語り合いました。
リサは言いました。
「私のお気に入りの西洋の詩との関連で俳句のことを考えてみると、双方を通じて私が評価するものは、感情や概念の複雑さと結びついた形式の持つ美しい簡素さ、強力な視覚的イメージ、そして作品がどのようにして驚きの要素を交えた遊び心あるものになりうるか、物質的なものと物質を超えたものとの想像的な相互作用をどのようにして作品が組み込むか、タッチの秀れた感覚によってどのように巧みに作品が仕上がるか、です。私の好きな作家の一人が、私が10代のときに母がその散文詩集のことを教えてくれた、20世紀のフランスの詩人フランシス・ポンジュです。私の心の中では、ポンジュの散文詩と俳句との間には、わずかながら結びつきがあります。ポンジュの詩は、パン、扉、蝋燭、牡蠣、ブラックベリーなどの日常の品々を簡潔に描写したもので、二、三段落程度のものがほとんどです。詩は、どんなに短いものであっても、描写の積み重ねによってある種の詩的な重みを獲得し、言葉の蓄積が濃密で凝縮したものとなり、それを読むことに私を引き込むのです。ここで私が話しているのはフランス語から英語に翻訳された詩のことですが、日本語から英語に訳されたものは、同じ詩や俳句でもさまざまな翻訳があってニュアンスがかなり異なっていることに、とても驚かされます。俳句の詩的な重みはポンジュの散文詩のそれとはまったく違うと感じます。俳句の語句の数が、決められた音節構造に従う散文詩よりもはるかに少ないのは明らかです。俳句の三つの節を読んでいくと、それは私の心の中で羽のように軽く感じられるにもかかわらず、その力には強烈な説得力があります。そして私は、それがポンジュの散文詩と同じように、日常、観察、身体感覚に焦点を当てていることに魅かれます。私の心には、ポンジュの散文詩が冬の重い羽毛布団のように感じられるのに対し、俳句はいわば夏の薄い綿のシーツのように私を覆っています。どちらも季節にぴったり合うように作られていて、その影響力は同じくらい強力です。詩的な重みの感覚こそ違いますが、私にとって散文詩と俳句はどちらも精密さの感覚に支えられており、言葉と行の持つリズムはどれも必然的かつ不可欠で、詩人の<タッチ>の感覚を生み出します。そのような詩すべてに感じるその本質を自分の絵画にも取り入れることを私は目指しています。文章の記述や絵画の描写における巧みな簡素さを私は好みますし、それがどれほど装飾的なものや複雑なものであっても変わりません」
キャンバスに油彩
Collection of Lubaina Himid
私はこう言いました。
「日本の俳人はよく<季語が動く>という言い方をします。つまり、一つの俳句には一つの季語が使われるのが原則ですが、その季語が他の季語に置き換えられそうな場合は季語が動くと言われ、完成された俳句とはみなされません。一つの俳句にはそれに最もふさわしい一つの季語があるべきで、俳人はその基準を目標として俳句を作ります。一万を超える数の季語の中から、たった一つの適切な季語を選ぶことが作句の際に求められることであり、そのような感性の精度が必要なのです」
イメージと感情
リサと私は、絵画と俳句の双方において、あるイメージと、そのイメージを経験したことで生じる感情との相互作用に魅了されています。つまり、見たり読んだりしたものと、そこから見つけて感じ取って心と体に収めたものとが連鎖反応を起こすのです。絵や言葉による描写は、描かれた事物や場所に対する一義的な理解を生み出す一方で、それと同時に、心の中ではその対象や場所から遠く離れたところへと鑑賞者や読者をいざない、感情、洞察、連想、記憶、回想の内なる世界へと導くのです。
私は言いました。
「俳句は、世の中の具体的な事柄を描写し、言葉が生み出す具体的な意味を読み手に伝えます。しかし、秀れた俳句の本当のメッセージは言葉を超えたところにあり、言葉が生み出す情景や内容とはまったく別のところにあると私は考えます。例えば、旅先で俳句を詠むとき、私は風景の広大な空間全体に宿る独特の力を感じ取り、その感覚を受け止め、具体化して俳句の枠組みの中に収めようとします。もちろん、言葉はあくまでも言葉であり、文字通りの意味を持つ記号にすぎません。しかし、私にとって俳句の言葉の配列が生み出す意味とは、言葉自体の内容とはまったく異なる何かを伝えることにつながるものなのです」
リサは言いました。
「私にとってそのことは、空間と構成の概念やアート作品の空間内において何が起こるかを示唆するものです。それは、<もの派>に関してあなたが書いた素晴らしいエッセイでも探究されたことではありませんか?」
私は答えました。
「<もの派>の作家たちは、作品に使われている素材とその周囲との関係性を意識して作品を制作していたと言えます。そのため、作品自体というよりは、作品によって活性化され、素材によってエネルギーを与えられた空間が中心にあったのです。<もの派>を代表する作家の一人である菅木志雄は、このような空間を<周囲>と呼び、もう一人の代表的作家である吉田克郎は<間>と表現しました」
リサは答えました。
「<間>というその発想に私は魅了されます。つまりそれは、あるものが別のものと融合したり反発したりするときの、ものとものとの間のギャップのことです。限られた空間をどのように描くか? それは絵画のどこにどのように存在するのか? 熱が冷め、光が弱まり、近いものが遠くになるときなのか? こうした移り変わりは実際に描かれるものなのか、それとも想像の中にある絵画の構成を通して感知され感得されるものなのか? マーク・ロスコとウィリアム・ターナーの絵画のことが思い浮かびます。私は二人の作品が大好きです。絵画や世界におけるさまざまな状態の間の移行と変化について考えさせてくれるからです」
「靴」1985
キャンバスに油彩
Tate Collection
リサは続けました。
「あなたが<もの派>にとっての<周囲>や空間の重要性と価値について言及したことで、1990年代の初頭に私が絵画の制作方法を大転換したことを思い出しました。1980年代全般を通して、私はすべての絵画を1日で制作していました。しかもそれらは80×102か112インチの大きな絵画でした。それは速いペースで絵を描いた10年間でした。作業中、キャンバスの表面の絵の具を湿ったままにしておく必要がありました。まるで絵画が一つの思考であるかのように、そこでの要素は物質的に一貫した流れで結びつけられていなければなりませんでした。私はこれらの絵画を、絵の具を用いながらも、書道を思わせるような素早い動作で制作し、思考と行動が密接に結びつくことを経験し、繊細な筆使いに揺れ動く絵画を描くのに成功したことで、大きな喜びを味わいました。しかし、1980年代の終わりにはこのやり方に終止符を打ちました。遅いペースで描く絵画とは何かを探究したいと思ったからです。もっと時間をかけて絵を描き、乾いた絵の具の上に絵を描き、絵の具の層を重ねて作業したいと考えました。そのためには、描くための新たなルールを決める必要がありました。絵画を遅く描くことによって私は、絵画空間について考えることができました。ゆっくりと絵を描き、絵の具を重ねていくことで、絵画の中の対象物の周囲の空間を調整できることに気づきました。これは速く描くことでは達成できなかったことです。速く描くと、必ずといっていいほど絵画が平坦になってしまいます。絵画内の空間を心の中で移動させることで、時間について、そして知っていることと知らないこと、目に見えるものとの関係で隠されているものや見えないもの(例えば、鑑賞者には見えないもしくはアクセスできない絵画の中の対象物の裏側、あるいはシャッターが閉まっていて内部が見えない建物の描写)について新たな考えが浮かびました。そこでは、存在と不在という二分法についてのより鋭敏な感覚が鍵になります。私は今日に至るまで、絵画における空間と時間の概念に焦点を当てており、さまざまな形式のアプローチを通じて、絵画がどのようなものであるかをめぐる新たな実験を試みています」
新鮮さ
アート作品がどのようにして作品の枠を超えた別の場所に人を導いていけるのか、また、アート作品がどのように読者や鑑賞者の心に触れ感動させられるのか、という問題について再検討してみることにしました。
私は言いました。
「初心者の俳句は、一見してシンプルで分かりやすいものになる傾向があります。それが中級者になると修辞法を工夫したり、言葉のバランスを調整して意味やイメージの作用を工夫したりするようになります。作品における意味やイメージはより広くより微妙な形や感覚を帯びるようになります。ところが、中級者から上級者へと上達していくにつれて、俳句は再び一見するとそれほど複雑でない形になります。実のところ、その俳句はシンプルで分かりやすいものになり、ほとんど何も語っていないかのようです。しかし、熟練者の俳句は、長い時間をかけて培った経験と知識を身につけることで、まさにそのシンプルさを通じて、初心者の俳句とはまったく異なる、力強いエネルギーのような何かを読者に伝えます。高浜虚子の俳句は、まさにその好例だと思います。つまり、俳人が俳句を上達させ進化させていく過程とは、初心者の分かりやすい俳句に始まり、その後複雑な技法を経て、再び分かりやすいものへと至る過程である、というのが私の考えです。この逆転こそが、いわば俳句のパラドックスなのです」
リサは言いました。
「あなたの発言を聞いて、画家の苦闘が作品に表れているのを目にするのが嫌いだったことを思い出しました。私は、アーティストが絵を仕上げるために努力したり格闘したりするのを見たくありません。もちろん、努力や格闘のありのままの痕跡こそが作品概念の要素である場合は別ですが。試行錯誤や失敗や苦闘は絵を描く上では必ずつきまとうものかも知れませんが、私は作品の鑑賞者に自分の格闘を目撃してほしくはありません。どのような格闘があろうと、私の絵は努力の痕跡が見えないものでなければなりません。絵とは、私の内面の深くにある個人的な何かから生まれ、私の感情や体の感触によって駆り立てられるものではあっても、私の絵は、私、私の自我、私の感情、私の努力からはほとんど独立した、それ自体が自立した絵でなくてはなりません。そして私の絵は新鮮でなければなりません。私はジェスチュラル・ペインティング(身振りを使った抽象絵画)に見られる新鮮さが大好きです。ジェスチュラル・ペインティングにおいて、絵がどのように描かれているかに注目しながら、同時にイメージの内容を観察するのは感動的です。ベラスケス、ゴヤ、マネは私のお気に入りの20世紀以前のヨーロッパの画家ですが、彼らはこのような特質を見事に体現しています。私が作品における素晴らしい新鮮さを賞賛する現代の画家として、イザベラ・デュクロ、ルバイナ・ヒミッド、アグラエ・バサンなどがいます。熟練した経験豊富な俳人が作った一見シンプルな俳句においても、新鮮さが特徴になるとあなたは考えますか?」
私は答えました。
「熟練者の俳句には、どんなにシンプルに見えても新鮮さというか、力や輝きのようなものが感じられます。ある熟練の俳人が私にこう言いました。俳句を読み慣れてくると、パッと目に飛び込んできた瞬間にいい句かどうかわかる、と。いい句には、そういう輝きのようなものがあると思います」
キャンバスに油彩
the artist and Kate MacGarry
(ロンドン)
リサは付け加えました。
「それを聞いて、急に日本酒の楽しみ方のことを思い出しました。ヨーロッパのワインの赤や白、ロゼのドラマチックな色とは違い、澄んだ日本酒は無色なので、液体を通して酒器の美しさを鑑賞することができます。澄んだ日本酒でも濁った日本酒でも、日本酒の見た目には特に目立つところはありませんが、飲むと味が口の中で弾けます。見かけは控えめで特徴のないものが、こんなに美味しい驚きを与えてくれるのです。私はよく目を閉じて、味と温度の感覚をより深く感じようとします。日本酒を飲むことは俳句を読んで衝撃を受けることと少し似ているとは思いませんか?」
私は答えました。
「日本酒と俳句の関係について考えたことはありませんでした。ただ一つ言えることは、日本文化のさまざまな要素には共通した特徴があり、その特徴を最もよく体現したものの一つが俳句だということです。例えば、俳句と禅との関係を指摘する人がいます。しかしながら、俳人たちが俳句を語るとき、禅について触れることはほとんどありません。だとしたら、俳句と禅は無関係なのでしょうか。そうではありません。両者の間に直接的で明確な結びつきがなくても、日本文化の根底にある共通の特徴を共有していると私は思います。日本酒と俳句の関係も同じなのかも知れません。今度日本酒を飲むときはその点について考えてみたいと思います」
小津安二郎について
小津安二郎(1903~63)の映画作品の美しさについて、私たちはいろいろな思いを語り合いました。英語圏ではあまり知られていないかも知れませんが、小津は生涯を通じて俳句を作ることに熱心に励み、俳句や連句を書くことで学んだことは映画製作に大いに役立ったと語っています。これは、小津と俳句の関係を知らなかったリサにとってはまったくの初耳で、小津の創作活動のそうした側面を知ったことでリサは喜びました。
夢の中に
春の雨 小津安二郎
(口づけも夢のなかなり春の雨 小津安二郎)
リサは次のように語りました。
「私は小津映画の一場面一場面の絵画的な構成を心から愛し、一つのショットの中にある二つのものの関係、つまり近いものと遠いもの、大きなものと小さなもの、内と外といった二つのものが共存する関係をとても美しいと思います。とりわけ、風景の中を横切る電車、静かな室内で時を刻む時計、澄んだ青空を背景に物干し紐に干された洗濯物のはためき、オフィスビルの階段を上り下りする人々など、小津のいわゆる「ピロー(枕)ショット」による静と動の描写を私は高く評価しています。『東京物語』の素晴らしいシーンが思い浮かびます。老夫婦がバスの座席に座り、窓の外に広がる東京の景色を眺め、静かな車内と、二人が観察する活気のある街並みとの対照が描かれます。日常、事物、構成の喜び、動と静、変化と変容、存在と不在、探究に対する小津の詩的な視点は、静物画に対する私のアプローチに深い影響を与えています。俳句では、動と静、変化と変容といった二つのものの関係も重要と言えるのでしょうか?」
私は答えました。
「俳句は一句の中での二つのもののぶつかり合いを非常に重視しています。それは必ずしも動と静の組み合わせを意味するものではありませんが、そこでの対比は極めて重要です。俳句は、この対比するものの間の距離の感覚を議論の対象にします。二つのものが論理的にまたはイメージ的に容易に結びついてしまう場合、それは<付きすぎ>と呼ばれます。一方、対比するものが互いにうまく呼応せず、適切な高揚した感情を生み出せない場合は<離れすぎ>と呼ばれます。俳人は<付きすぎ>でも<離れすぎ>でもない適切な距離感を見つけなければなりません」
「日本の版画」1987
キャンバスに油彩
個人蔵
私は続けました。
「小津に関して言えば、半世紀前の日本では彼の作品は映画評論家からは非常に平凡なテーマを扱ったものだと見られていたのかも知れません。日本のありふれた日常生活を描き、物語はどれも似たり寄ったりです。少なくとも当時の日本社会に対して哲学的な問いかけや政治的な問題を鋭く提起したりする映画には思えませんでした。だからこそ、当時の批評家は小津作品を軽視していたのでしょう。しかしながら、小津作品は、ありふれた日常生活の表層的な描写にとどまらない、非常にモダンで独特の美的な空間感覚を提示していたと私は思います。日常とモダンとのこの組み合わせを通して、小津映画は観客に対し、物語の直接的な意味を超えた、抽象的でありながらも触感的な空間感覚をもたらすのです。小津映画の持つこの特質は、素晴らしい俳句作品の特質と類似しています」
リサは言いました。
「私が初めて『東京物語』を見たのは20代のときで、正確な状況は思い出せないのですが、それ以来、小津は私のお気に入りの映画監督になりました。1990年代の初頭、東京で開かれたアーティスト・イン・レジデンスのときに、小津の映画をじっくりと味わえたことは大切な思い出です。レジデンスは秋から一月にかけて行われました。クリスマスが近づいても、東京の人々は、商店街の無数の飾りつけは別にして、クリスマスという大事な日には関心がなさそうだったので、私は居心地の悪い思いがしました。私の故郷のクリスマスは家族や友人たちと過ごすもので、テーブルにはごちそうが並び、当日はロンドンの店もすべて閉まります。それとは違って、東京の商店や会社は普段通りに営業しています。故郷のみんなに会いたいという気持ちがつのる中、どうやって一日を過ごせばよいかと考えていたところ、銀座で開かれていた小津映画祭に救われたのです。クリスマスと(その翌日の祝日である)ボクシング・デーの朝から晩まで、小津映画を次から次へと見て過ごしました。映画には英語字幕がなかったので、ストーリーはほとんど理解できませんでしたが、それでもかまいませんでした。自分の目だけで小津の映画に浸り、彼の魅惑的な映像の世界を視覚的に発見できたことは素晴らしい経験でした」
私はこう言いました。
「私が10代後半に大学進学のために上京したとき初めて見た映画が、銀座の名画座で見た小津安二郎の『東京物語』で、このことは私のいい思い出です。あなたが経験されたように、ストーリーをあまり理解することなく小津の映画を見るのは、実のところ最もよい鑑賞法なのかも知れません。というのも、私の考えでは、小津映画の隠れた核心は言語的な意味を超えて構築された美的な空間感覚にあるからです。それは秀れた俳句や、おそらくは絵画にも見られる感覚でしょう」
これを聞いて、リサは大喜びで笑いました。
(和訳: 小野裕三&伊藤茂)
リサ・ミルロイ(Lisa Milroy)
1959年、カナダのバンクーバーに生まれ、現在はロンドン、リッド・オン・シー(英国)、サン・ミシェル・ド・リヴィエール(フランス)を拠点に活動する。彼女の絵画の中心は静物画であり、その作品の特徴は、静と動の関係や、絵画の制作と鑑賞の本質に対する継続的な関心にある。1989年にジョン・ムーアズ絵画賞の最優秀賞を受賞し、2005年にロイヤル・アカデミーの会員に選出された。ロンドン大学スレイド美術学校の名誉教授で、2009年から2024年まで同校の絵画の大学院課程で教鞭をとった。また、2013年から2017年までナショナル・ギャラリーのリエゾン評議員を務めた。彼女の作品は、テート美術館、フランスのFrac Occitanie Montpellier、アメリカのメトロポリタン美術館、日本の福岡市美術館、ケニアのEast African Visual Arts Trustなど、多くの公共コレクションに収蔵されている。彼女の代理機関は、ロンドンのKate MacGarryと、東アフリカではナイロビのOne Off Contemporary Art Galleryである。
ウェブサイト: http://www.lisamilroy.net/
小野裕三(おのゆうぞう)
大分県生まれ、神奈川県在住。「海原」「豆の木」所属。英国王立芸術大学(Royal College of Art)修士課程修了。句集に『メキシコ料理店』『超新撰21』(共著)。国際俳句協会評議員ならびに英国俳句協会会員。
ウェブサイト: https://yuzo-ono.com/