haiku・つれづれ
haiku・つれづれ - 第37回
アートと俳句との対話
ラファエル・ローゼンダール + 小野裕三
小野裕三
小野: あなたはアーティストとして、長らくインターネット上で作品を発表し、また、日本の十和田市現代美術館をはじめ、数多くの展覧会を開催してきました。その過程で、日本の俳句に出会い、ご自身でも俳句を作り始めました。ウェブサイトで俳句を発表するだけでなく、展覧会で俳句をアート作品として展示したり、句集を編んだりもしていますね。今日は、こうした活動についてお聞きしたいと思います。
「ジェネロシティ 寛容さの美学」十和田市現代美術館
最初に、あなたのアート作品と俳句との関係について私の考えを述べさせてください。キーワードは二つあります。一つは「コード」、もう一つは「リズム」です。
まず、あなたは俳句がデジタル技術のコードのように機能すると考えているようですね。つまり、俳句は最終的なアウトプットというよりも、読者の中で何かを動かすきっかけとなるということです。私もその意見に賛成です。俳句は読者に感情的な何かを与えますが、それに終わりや目標はなく、さらには厳格で確固とした意味もないかもしれません。この図式は、コードを元にしたデジタルプログラムで表現されるあなたのインターネットアート作品と非常に似ているようです。
俳句が読者にとってコードとして機能するのには、二つの理由があると思います。一つ目は、俳句が短いため、余白や空白が大きいことです。そのため、俳句は読者の想像力に大きな余地を残し、それを刺激するコードとして機能します。二つ目は、俳句が短いため、俳句が読者の記憶に一つの塊として残り、反芻することができることです。この機能はまさにコードに似ています。これとは対照的に、長い詩の場合はそうではありません。ほとんどの人はそれぞれの詩の全体を暗記できないからです。
第二に、私の論点のもう一つのキーワードはリズムです。あなたの俳句は、日本の俳句の主流である五七五のルールに決して従っていません。しかし、それはあなたがリズムに無関心であることを意味するとは思いません。あなたは、それぞれの俳句における三行の間に生じる繰り返し、コントラスト、バランス、衝突を頻繁に利用しています。それは、あなたがひとつひとつの俳句での三行がどのようにリズムを生み出すかを非常に意識していることを意味しそうです。
さて、質問を始めたいと思います。あなたが俳句に出会ったのは、川崎(日本)でのワークショップで、参加者の一人があなたの作品に応えて俳句を書いたのがきっかけだったと聞きました。俳句に出会ったその時の第一印象はどうでしたか?
ローゼンダール: 長年、私はさまざまな芸術媒体を扱ってきましたが、それぞれに多くのストレスが伴い、非常にストレスフルです。ソフトウェアは壊れる可能性があり、絵画は傷む可能性があります。俳句にはそんな心配もなく、とても穏やかだと感じました。俳句の好きなところは、始めやすいところです。ハリウッド映画、例えばスターウォーズのような大作を観て、「自分も明日、映画を作ろう」とは思わないでしょう。でも俳句なら、やってみようと思えます。
小野: その後、俳句に興味を持ち、芭蕉や歴史上の俳人の作品を調べ始めたそうですが、芭蕉の「古池」の句が朽ちないことに驚いたとおっしゃっていましたね。
ローゼンダール: そうです。頭の中にイメージが生まれ、とても鮮明で、とても新鮮で、毎回新しいのです。
小野: それは、俳句の短さが理由でしょうか?
ローゼンダール: おそらく、水がとてもきれいで、水の動きを感じ、春の朝のような、とてもさわやかな感覚を感じる、ということなのでしょう。
小野: そのことは、俳句はただ短いだけではなく、動きのある一瞬を捉えるのに長けているということを意味しそうですね。まさに俳句をコードとして考えるという視点に通じると思います。
それでは、好きな俳句や俳人がいたら教えてください。
ローゼンダール: 俳句集をいくつか読んだのですが、詩人の名前は覚えていません。ただ、大都市ができる前の自然や時代の雰囲気、太陽を見たり、目覚めたり、日の出を見たりといった感覚がとても強かったことを覚えています。蚊と屁を詠んだ愉快な俳句や、猿の仮面の俳句もありました。
それは猿だ
猿の仮面を被って 芭蕉
(年々や猿に着せたる猿の面 芭蕉)
「Permanent Distraction」サイト・ギャラリー(シェフィールド)
小野: 俳句を調べたり読んだりするだけではなく、自分で俳句を書こうと思ったのはなぜですか?
ローゼンダール: 私は昔からシンプルなものが好きです。初めてインターネットを見たとき、とてもシンプルなツールを使ってウェブページを作れそうだと思いました。
また、私が俳句を始めた理由の一つは、常にスマートフォンを使っていることです。コンピューターは、データを取り込むことを強制します。コンピューターは多くのものを提供し、私たちは常に読んだり、見たり、聞いたりしています。しかし、私は創作したいし、創作するためには取り込むことを止めなければなりません。携帯電話は絵を描くには小さすぎるので、「携帯電話で何ができるだろう」と考えていました。その一つが、とても簡単にできる携帯電話へのテキストの書き込みでした。私にとって俳句とは自然発生的なものです。何かに気づいたら、すぐにそのまま書きとめて、後でいろいろ書き直してみます。テキストメッセージを送信する時の自然発生的な感覚に似ています。これが私が俳句が好きな理由です。サイズもテキストメッセージとほぼ同じです。テキストが現代では非常に重要であるため、俳句は現代の時代に非常に関連性があると感じます。
小野: あなたの俳句は五七五のルールに従っていませんね。それはなぜですか?
ローゼンダール: 五七五ルールについて注目すべき重要な点は、私が芭蕉を読んだとき、それは翻訳だったので五七五ではなかったということです。英語は日本語とはまったく異なる言語構造なので、私にとって五七五を使うことはほとんど恣意的です。
小野: アメリカの著名な小説家ジャック・ケルアックも俳句をたくさん書いていて、それらはとても素晴らしいのですが、彼もあなたと同じような考え方で、日本語と英語は構造が違うことを理由に、五七五のルールには従っていません。
ローゼンダール: 彼はとても自由な精神の持ち主です。
小野: 俳句のリズムについてはどう思いますか?
ローゼンダール: もちろん、いろいろ試してみます。毎回同じくらいうまくいくとは限りませんが、最初に書いてから後で変更していくという俳句のプロセスが好きです。それが私が求めているものです。
小野: あなたの俳句のリズム感は素晴らしいと思いますし、そのリズム感はあなたのインターネットアートの作品にも通じていると思います。しかも、その感覚は、種田山頭火や尾崎放哉といった日本の自由律俳句の人たちが五七五のルールを捨てたのに似ています。その代わりに自由律俳人がやろうとしたことは、自分たちの俳句の中に独自のリズムを見つけることだったと私は思います。
そしてあなたは、五七五だけでなく、俳句の季語も使いませんね。
ローゼンダール: 私の俳句の多くは、私が住んでいる世界についてのものだと思います。現代も季節はありますが、500年前には今よりももっと季節の存在感が強かったと思います。現代では、私に届くメールの方が、雨が降っているか雪が降っているかということよりも、私の精神生活にとって重要です。メールが春に届くか冬に届くかは、あまり関係がありません。メールの情感は大きなものです。私たちの世界では、天気が重要な場合もあるものの、エアコンや暖房があります。冬でもバナナを食べることができます。日本の春のお茶の味は秋のお茶とはまったく異なりますが、現代ではコカコーラが一年中飲まれています。YouTubeは夏と冬で違うのでしょうか? これは興味深い質問です。なぜなら、私たちは今でも自然界に住んでいますが、自然界は私たちの意識から押し出されているからです。ですからアーティストとして、決めることができます。自分は500年前の意識を再現したいのか、それとも今の世界が何であるかを見たいのか、とね。
小野: あなたは俳句にとても関心がありますが、他の形式の詩についてはどうですか?
ローゼンダール: 理由は分かりませんが、私にとっては俳句というこの三行がとても興味深いのです。
学校では詩についてあまり学びませんでしたが、私はむしろビジュアルアーティストとして詩に取り組んでいます。私は瞬間や思考に興味があります。思考を俳句のような精神的なオブジェに変える、というようなことです。それは、特定の瞬間に感じるエネルギーに関するものです。
電車を待っている瞬間が、私の俳句の三行の出発点になることがあります。それを読むと、まったく違うものが見えてくるので面白いです。外にいるときはいつも携帯電話を持っていて、それが今の私たちの生活です。だから、電車に30分座って頭が真っ白なとき、俳句は完璧な媒体でした。常に動き回っている私の生活にぴったりだと思います。移動中の空白の空間は、俳句にとてもよい場所のように感じます。
小野: あなたの発言は、またしても自由律俳句の俳人を思い出させます。山頭火も放哉も放浪者で、常に動いていたからです。俳句を書くことは、放浪する心にとても適しているということだと思います。そして、空白とは、時間の空白だけでなく、心の空白も意味します。
ちなみに、あなたがすでに発表した俳句の中から、私が特に好きな俳句を三句選びました。
買うのを忘れたよ
アボカドを
なんでも試してみた
まだ眠れない
私は思う
長く座りすぎかもって
あなたの俳句には、自己を振り返る瞬間、意識の微妙な動きの小さな矛盾、そしてその矛盾と現実との響き合いを感じます。日本の自由律俳句の俳人たちとあなたは、日常生活の小さな矛盾から何か大きなものを引き出すことができるこの感性を共有していると思います。
それでは次の質問です。なぜギャラリーで展示される物理的なアートの形に俳句をしてみようと思ったのですか? そのように俳句が物質化されたとき、どう感じましたか?
「Color, Code, Communication」フォルクヴァング美術館(エッセン)
ローゼンダール: アートの世界では、作品はまっさらな心で見るもので、始まりや終わりを期待しないものだ、と理解されているからです。絵画を見るとき、それは映画のように結末がなければならないものではありません。ギャラリーや美術館の壁に何かが飾られているということが私は好きです。私たちはそれを、川や噴水を見るのと同じように、ほとんどイメージとして見ます。作品が変化することを期待しません。長い間見ることができますし、ギャラリーや美術館は無神論者にとっての教会のようなものだと思います。それは瞑想の場であり、ゆっくりする場所です。ですので、広いスペースで俳句を展示するもっともよい方法は何だろうと考えなければなりませんでした。絵画やビデオの横に俳句を置いて、同じような心境で見るのもいいかもしれません。
気づいたことの一つは、最初にTwitterに俳句を投稿したとき、あまり反応がなかったということです。その後、俳句集を作り、その本の写真をInstagramでシェアすると、多くの人に気に入ってもらえるようになりました。Twitterはとても儚く、瞬間的なものだと思います。誰かが本を作り、その写真を撮ったとすると、どういうわけか、より献身的な印象を受けます。私の展覧会では、壁画で本をシミュレートしたかったので、色をつけた長方形を二つ用意し、俳句を目立たせるスペースも作りました。
小野: あなたのその議論は別の視点を示唆します。英語のアルファベットは26文字ですが、日本語は漢字が膨大で、文字数は数千に及びます。これは俳句を書くときに大きな意味を持つと思います。つまり、日本語では俳句の見た目や質感が非常に重要になります。そしてこの感覚は、ギャラリーでアート作品と向き合う感覚に少し似ているかもしれません。つまり、日本語で漢字を使う代わりに、アルファベットの俳句をギャラリーの壁に物理的に表現することをあなたは選んだということです。
ローゼンダール: そうだと思います。
小野: 先ほど芭蕉の俳句は朽ちないというお話がありました。それは、絵画や他のジャンルと比べた俳句の特徴でもあるとおっしゃっていますが、それはなぜでしょうか?
ローゼンダール: 大きな違いは、例えば、私は今スタジオで絵を描いています。今、絵の中の色は明確ですが、100年後には褪色しているだろうことを私は知っています。どんな物理的な芸術形式も朽ちていくことを私たちは知っているのです。
一方、デジタルアートは、劣化しないところが面白いです。実際、画面(の機械としての性能)がどんどんよくなるので、時間の経過とともによくなっていきます。
小野: なるほど。物理的な形を持つアートやデジタルのアートの形態と俳句は違うから朽ちないと考えるんですね。でも、もしそのことが理由だとしたら、俳句に限らず、文字で書かれた他の文学作品も朽ちないということになりませんか?
(ユトレヒト)
ローゼンダール: 長編の古い文学を読むと、世界が大きく変わったという点において、朽ちているように感じることがよくあります。ホーマーやディケンズを読むと、時代がまったく違っていて、とても歴史的な感じがします。しかし例えば、山の頂上にいるという俳句は、時代を超えています。つまり、長い文章の文学は文化的に朽ちるということです。本の物語や本質は、それが書かれた時代を知っていることに大きく依存しています。俳句の短さは、そのことを少なくしていると思います。
ところで、質問があります。日本の俳句界にとって、外国人が俳句を書くことは常によいことなのですか?
小野: これまで日本の俳人たちは外国の俳句に対してあまり関心がなかったと言わざるをえません。その大きな理由の一つは、彼らの多くが外国語はあまり得意ではないことです。しかし、この状況は次第に変わってきていると思います。
ローゼンダール: 人間の生活の特定の要素は、まちがいなく普遍的だと私は感じています。絵を描くときに手と目がつながっているようなものです。歴史的な洞窟壁画を見ると、3万年前にオーストラリア、フランス、アフリカで同時に起こった様式の変化がわかります。ですから、俳句をあまり読まなくても、とても短い詩を書くように人々に頼めば、世界のさまざまな場所で同じ本質にたどり着くのではないでしょうか。
小野: 同感です。私の考えでは、そのような短い詩は俳句と同等、あるいは俳句そのものと見なせます。多くの文化が同じ根源を共有しているはずです。これが、俳句が今や世界中で人気がある理由だと思います。
では、俳句的な感覚を感じさせるアーティストはいますか?
ローゼンダール: フェルメールの絵は俳句に似ていると思います。誰かがボウルにミルクを注いでいて、ある季節に光が部屋に差し込んでいます。私にとってはそれはまさに俳句です。
他にもいろいろな名前が挙げられます。デイヴィッド・ホックニーは、水しぶきを上げてプールに入る人の絵を描いていますが、これは芭蕉にとても似ています。モンドリアンは、三行の俳句のような三色使いで、とても俳句に似ていると思います。また、アグネス・マーティンやロイ・リキテンスタインの初期作品も似ているかもしれません。
小野: あなたが挙げた名前のほとんどは、私には納得できます。なぜなら、現代アートの明らかな特徴の一つはシンプルさであり、それは俳句の大きな特徴でもあるからです。しかし、フェルメールの名前を挙げたことには、少し驚きました。彼の絵画のスタイルが非常に緻密で、シンプルさからはほど遠いからです。
ローゼンダール: フェルメールには、物語やドラマが不在です。例えば、とてもドラマティックなスタイルのカラヴァッジョとは違います。日常生活では多くの人が結論を求めていると思いますが、私の作品の多くは物語の不在についてのものです。俳句は結論を与えようとしません。だからこそ俳句はオープンなのです。アニメーション、テキスタイル、テキスト、またはあらゆる媒体で、始まりも終わりもない結論の不在を表現できます。
私は美術史と絵画を専攻したので、静物画という概念についてよく考えます。私にとって、絵画が見るものの反映であるならば、俳句は思考や心の状態の反映なのかもしれません。どちらも同様に物語性が非常に少ないものです。テーブルの上に果物のボウルがあって、でも画家がその果物や花を描こうとした理由はわかりません。同様に私の俳句で、私がどこにいるのか、いつアボカドを買うのを忘れたのか、はわかりません。物語性はほとんどまったく排除されています。つまり、これはまさに非常に短い瞬間の心理学に関するものなのです。
小野: 最後の質問です。今後、俳句とアートの関係性をテーマにしてやってみたいプロジェクトはありますか?
ローゼンダール: このインタビューを受けて、俳句に対していっそう熱意を感じるようになったと言わざるをえません。
小野: それを聞いてとても嬉しいです。
ローゼンダール: クリエイティブな人であれば、あるアイデアに夢中になると思います。そして、夢中になると、他のことは何も考えられなくなります。今、私は絵画に夢中で、それの虜になっています。でも、もっと大きな展覧会を開いて、アニメーション、絵画、俳句をすべて一つのスペースに組み合わせることができるのは素敵なことです。私にとって、美術館での展覧会は、すべてを隣り合わせに置く本当に興味深い方法です。
(和訳: 小野裕三)
ラファエル・ローゼンダール(Rafaël Rozendaal)
ニューヨーク市在住のオランダ系ブラジル人ビジュアルアーティスト。インターネットアートの先駆者として知られ、彼の作品を展示するウェブサイトは年間6,000万人の訪問者があり、その他に、絵画、インスタレーション、タペストリー、俳句も手がける。これまでの主な展示として、ポンピドゥーセンター、ホイットニー美術館、フォルクヴァング美術館、フランクフルト美術館、メディアアート研究所、アムステルダム市立美術館などがある。
ウェブサイト: https://www.newrafael.com/
小野裕三(おのゆうぞう)
大分県生まれ、神奈川県在住。「海原」「豆の木」所属。英国王立芸術大学(Royal College of Art)修士課程修了。句集に『メキシコ料理店』『超新撰21』(共著)。国際俳句協会評議員および英国俳句協会会員。
ウェブサイト: https://yuzo-ono.com/