haiku・つれづれ

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haiku・つれづれ - 第20回
句集『夜のジャスミン(Night Jansmine)』を読む

小野裕三

著者のゴラン・ガタリサ(Goran Gatalica)は、クロアチアの詩人だ。クロアチアはヨーロッパの中のかなり小さな国で、人口で400万人というから静岡県の人口より少し多いくらいの規模だ。面積も九州の1.5倍くらい。旧ユーゴスラビアが解体されてできた国でもあり、多くの国と陸上で国境を接するが、どれも同様に小国ばかり。また、クロアチアを含めたこの地域は1990年代に過酷な民族紛争を経験している。そんな国に生まれて暮らすというのは、日本で生まれて暮らす人が持つ国家や社会への感覚とはだいぶ違うのだろうな、と思う。

それが理由なのかも確かなことは言えないのだが、彼の詩の根底には、小さな場所に住んで何かに翻弄されながら感じる大きな世界、という感覚があるように思えた。その感性ゆえだろうか、かけ離れた二つのものの対照の間合いを測ることがとても巧みな句が多い。大と小、複雑と単純、動と静、思念と現実、明と暗、などの対照を作り、そこから詩性を引き出していくことに非常に長けている、という意味だ。

climate change
the wild rice bends heavy
under the blackbird

気候変動
真菰が重く撓う
黒鳥を乗せ

この句も、一行目でいきなり「気候変動」という大きなテーマをそのままの言葉で表す。それに対照されるのが、真菰の撓みや黒鳥、というどこか不吉な印象を負うイメージでもあるのだが、しかもその中で一番焦点が当たるのが「撓み」という、実体の見えにくい即物的な力だ。その単純な物理現象が、気候変動というあまりにも大きくて捉えどころのない、しかし確かに起きている複雑な物理現象と対照される。そのような対照の作り方がいかにもセンスがいいと思うし、そこでは俳句の持つ簡潔さや二物衝撃の構造がうまく活きている。

対照の上手さ、といえばこのような句もそうだ。

visiting Nagasaki
my granddaughter asks
how stars are born

長崎の旅
孫娘がたずねる
星はどうやって生まれるの

外国からわざわざ長崎に来るとなれば、それは当然、原子爆弾や戦争、といった重いテーマを想起させる。にもかかかわず、この句ではそのことは直接的には何も触れられない。いや、そもそもこの作者や孫たちが長崎にたどり着いているのかどうかも不明だ。旅はまだ途上でしかないのかも知れず、少なくともこの句では長崎にある地上のものは一切触れられていない。言及されるのは、夜の闇とそこに浮かぶ星の光、そしてそれらを包む途方もなく長い時間という、茫漠としたものばかりだ。だからひょっとすると、この句の場面は長崎に行く飛行機の機中なのかも、などと思ったりもする。そうなると、あの日長崎の上空に飛来したはずの爆撃機のことも連想されてくる。長崎という、人類史的にも特別な意味を持つ場所を名指ししつつ、しかもそこの地上のものには一切触れないというこの奇妙に倒錯した対照が、一句の中に多重的なイメージの響きを作る。

このような傾向は、句集のタイトルとなった次の句にも現れている。

night jasmine –
her bloomed soul brings water
to a refugee

夜のジャスミン
その花のみずみずしい心は
難民に水を運ぶ

まず、夜のジャスミン、という言葉になんとも喚起力がある。この言葉一つの中に既に、これまで見てきたような、大と小、抽象と具体、といった対照が見てとれる。興味深いのは、その対照が作り出す落差を、二行目と三行目でさらに敷衍するように詩の構造が動いていくことだ。二行目では、花のみずみずしい心が水を運ぶ、などという、ほとんど童話の世界のような抽象性が語られる。だが一句がそのまま童話世界のように完結するかというとその真逆の帰結を迎えることは言うまでもない。この句は鮮烈な詩性と同時に、冷徹な現実を読み手に突きつける。特筆すべきは、この句が無骨なだけの社会批判には留まらない点だ。夜、花、水、などの要素を巧みに対照の鍵とすることで、高度な詩性も併せ持つ句として、この句は輝いている。

戦争などの社会的テーマについて、著者は句集の前書きの中でこう記す。

人間の文明における何世紀もの暗い歴史の中で、我々は何も学ばなかったのではないかという考えにしばしば私は襲われる ‹中略› 戦争について考える時、私の書く俳句は儚げな蝶に向き合う——それは戦争によるすべての罪のない犠牲者と鉄条網の鋭さそのものを表している。

そのような彼の思いには、何か絶望や無力感にも近いひりひりとした感覚がある。だがこのような感覚こそが、彼の俳句では詩的に昇華され、大と小や光と影といった鮮明な対照として結晶していくのだろう。

ここまで見てきたように、社会的テーマも背景とした対照の巧みさがこの作者の描き出す詩性の特長なのだが、そのことは句集のタイトルにも入っている「夜」という存在にかなり象徴される気がする。

anemone bulbs –
I sleep wherever
the night catches me

アネモネの球根
何処であろうと夜が私を捉えた場所で
私は眠る

何処であろうと、というのが何を意味しているのかはここでは明示されない。矮小化すれば、家の中のどこの部屋であっても、という捉え方すらできるだろう。だが、この句では、夜が私を捉える、という擬人法が使われる。ここでの擬人法の効果は、「夜」という、本来であれば抽象的で静的であるはずの存在が、きわめて具体的で動的で、どこか禍々しい意思すらを持つもののように立ち現れることだ。そして夜がそのようなものであるのなら、そこで示される場所も大きな視野で考えることが相応しそうだ。つまり、いろんな国のいろんな場所のいろんな状況の夜がそこにはありうる。それがどんなにひどい状況でも、それは同じように「夜」なのだ。そう思えば、ヨーロッパの現代史が抱えるホロコーストの無数の悲劇の夜なども頭を掠める。いや、作者にはそんな意図はないのかも知れない。それでも、「夜」が擬人化された途端に、この句はそんな恐ろしい夜のことまでも含みうる大きな詩として読み手の前に立ち塞がる。

大と小、もしくは光と暗がり、といった対照の巧みさは他の句でも随所に見られる。

harvesting oysters
the expanse of the bay
in my father's hands

牡蠣の収穫
湾の蒼穹が
父の両手に
edge of the forest –
a logger's shoulders
carry the dusk

森外れ
木樵の両肩が
薄暮を運ぶ
temperature jump –
a blue dragonfly explores
the monk's shadow

温度上昇
青い蜻蛉が探る
僧侶の影の中

湾の広がりを手のひらに収めたり、薄暮を肩に乗せて運んだり、蜻蛉が僧侶の影を探ったり、と、これらの句の対照も鮮やかに設計されている。しかもそれぞれの句の一行目が、なんとも肉感的にそれらの対照を取りもつのも注目できる。

とは言え一方で、読み手に緊張を迫るような大きな対照の句ばかりではなく、ほっとするような日常的な些事を鮮やかに捉える句があることも、この詩人の才能を証明するものだ。

spring light –
father finds a book
about woodworking

春の光
父が出会う
木工の本
sunflowers in bloom –
we sing barefoot
on the back porch

向日葵の花
私達は裸足で歌う
裏庭のテラスで

この句集は、形式面でも面白い特徴を持っていて、クロアチア語と英語だけでなく、日本語、フランス語、イタリア語、チェコ語、ヒンディー語、の7カ国後の翻訳が施されている。本書に解説を寄せた、米国の俳人ジム・ケイシアンは、そのグローバル性にこの句集の「現代性」を見る。その現代性は、これまで触れてきたような句に見られる、地球的な視座に立った詩性の広がりにも通じると思う。

ゴラン・ガタリサ
写真:ゴラン・ガタリサ


小野裕三(おのゆうぞう)さん
小野裕三(おのゆうぞう)
大分県生まれ。神奈川県在住。「海原」「豆の木」所属。現代俳句協会評論賞。英国王立芸術大学(Royal College of Art) 修士課程修了。句集に『メキシコ料理店』『超新撰21』(共著)。国際俳句交流協会評議員、英国俳句協会会員。
ウェブサイト: yuzo-ono.com