21回HIA俳句大会及び講演会 日韓文化交流「俳句と時調」

時調は「韓国の心」

閔炳道(ミン・ビョンド)氏

皆様、こんにちは。
まず、尊敬する有馬朗人会長をはじめ国際俳句交流協会の皆様そしてご来場の皆様方に感謝の念を申し上げたいと思います。
本日ご挨拶に伺いましたのは、時調の国際化の模索の場として開催した「2016・清道国際時調大会」までお運び下さいました有馬朗人会長の【俳句と時調】それから藤本はな先生の【俳句の国際化】という特別講演の太い絆のお蔭と存じます。また、俳人の皆様のご高名はかねがね承っており、直接お会いでき光栄に存じます。

面白いことに、漢字文化圏の中国・韓国・日本の三国は昔から、一定のルールを持った固有の定型詩を継承しています。紀元前7世紀頃に遡る『詩経』から3-6世紀の六朝の古体詩、唐朝の絶句と律詩などの近体詩の確立といういわゆる漢詩の黄金時代を向かえた中国をあげることができます。有史以来、韓国の詩歌史上、代表的な定型詩には約千年の歌の歴史を持つ時調があります。古今集仮名序に見られる須佐之男命の「八雲立つ」歌の長い和歌の伝統を受け継いで、近世江戸の松尾芭蕉の出現を通して国民文学に昇華した日本の俳句がそれです。
これら東洋三国の定型詩は千年以上の民族精神の宝庫に留まらず、世界的な人類文化資産としても決して見劣りしないと思います。しかしながら、日本の俳句を除いて、韓国と中国の定型詩は固有の価値があるにせよ評価切り下げの実状といえます。本日のこの場を借りまして論議が重なれば時調の国際化のための新しい詩歌史を書くことができることを期待します。

時調は韓国における詩文学の本流の民族詩歌です。「時調」という名称は朝鮮王朝後期、申光洙(1712∼1775)の文集『石北集』〈関西楽府〉其の十五に〈一般時調排長短、来自長安李世春:一般の時調の長短を排せしは,長安(ソウル)より来たる李世春〉と記録されている用例が文献上の始めてです。
その以前には定まったものではなく、「歌謠・歌曲・永言・時節歌・新声・詩余・短歌・新翻 」など様々な名称が併用されていました。時調の発生時期も諸説が存在しますが、特に新羅時代の「郷歌」と高麗時代の初期の「景幾体歌」に継ぐ唱歌的詩歌様式といえます。
鄭炳昱の『時調文学事典』によると高麗時代の崔冲(984∼1068)の作品を時調発生の基準にする場合、時調の歴史は千年近くまで遡ることができます。高麗時代の末期、政治的な激動期に巻き込まれましたが、前代からの歌謡に淵源する時調美学に相応しく儒学をベースにした士大夫階層による自意識の発露と伝統を守り続けようとした時代的な要求から熱情であったことが分かります。
例えば、禹倬(1262∼1342)の

한 손에 막대 잡고 또 한 손에 가시 잡고
늙는 길 가시로 막고 오는 백발 막대로 치렸더니
백발이 네 먼저 알고 지름길로 오더라
片手は持ち棒、又の片手に握り茨
老ゆる道程、茨にて防ぎ、来る白髪を打たむとせし
白髪は我が意を知りて、はや近道して来たり

李兆年(1269∼1343)の

이화에 월백月白하고 은한銀漢이 삼경 三更인제
일지춘심一枝春心을 자규子規야 알랴마는
다정多情도 병病인양 하여 잠 못 들어 하노라
梨の花が咲き乱るる月夜、天の川三更を流るる
一枝に宿る春の心を、子規こそ知らざらめ
心変りも病かな、寂しき今宵眠れぬ我が身

といったことから文学的完成度を十分に見せてくれます。
ところで、ここで一つの疑問と出くわします。訓民正音、すなわちハングルが頒布された1446年を鑑みるに、多数の時調作品の伝承のやり方が問題になります。当時の時調の在り方は勿論、唱辞の形でした。当然、調べに載せて、一部は口伝の形で、一部は漢字を以て記録したりしました。それにも関わらず、士大夫の文芸として出発した時調は韓民族の言葉と抒情を歌った詩歌ということは間違いありません。
朝鮮時代、ハングル創製によって時調は言葉と精神をエラボレートする自覚とともに新しい時代を迎えるようになりました。李賢輔(1467∼1555)の「漁父詞」で現れた【江湖歌道】の姿勢や李滉(1501∼1570)の「陶山十二曲」が導く【道文一致】の精神を時調作品を通して拡張することによって時調の全盛期を享受しました。
作家層においても上は王様より下は学者・文人士大夫・官僚・民・芸者に至るまで参加しており、創作範囲も広くなり、素材や主題も多様化現象を見せて名実相伴った民族文学として位置を占めるようになりました。この時期、いわゆる、朝鮮の三大時調詩人といわれる鄭澈(1536∼1593)・朴仁老(1561∼1642)・尹善道(1587∼1671)がそれぞれ固有の哲学と美学に基づいて築き上げた時調の黄金時代を完成しました。
18世紀以後、時調はハングル採用の積極的な動きの影響がありました。例えば、李衡祥の『甁窩歌曲集』(1713)、金天澤の『靑丘永言』(1728)、金壽長の『海東歌謠』(1755)、朴孝寬と安玟英の『歌曲源流』(1876)などの作品集が目立つようになります。これらの時調集は持続的な研究調査が行われて、沈載完の『校本-歴代時調全書』(1972:古時調3335首収録)、朴乙洙の『韓国時調大事典』(1992:古時調5492首収録)、金興圭の『古時調大典』(2012:古時調46,400首 수록) 発刊まで至っています。
それでは朝鮮時代を代表する幾つかの時調作品をご紹介したいと思います。

청산은 어찌하여 만고에 푸르르며
유수流水는 어찌하여 주야晝夜에 긏지 아니는고
우리도 그치지 마라 만고상청萬古常靑 하리라
-이황의 「陶山十二曲-後六曲」 중 제 5수
青山は如何でか、万古に青くて
流水は如何でか、昼夜に止むことなきか
我らも止むべからずして、万古常青せむ
-李滉「陶山十二曲-後六曲」の第五首
반중盤中 조홍早紅 감이 고와도 보이나다
유자柚子 아니어도 품음직 하다마는
가져가 반길 이 없으니 글로 실워하나이다
-박인노의 「조홍시가早紅枾歌」 4수중 첫 수
盤中の早紅柿、いとあはれに見ゆなり
柚子の実にあらずとも、抱きたきものの
抱く甲斐 の人無きがゆゑこそ悲しけれ
-朴仁老 「早紅柿歌」四首中第一首
사랑이 거짓말 임 날 사랑 거짓말이
꿈에 와 보인단 말 그 더욱 거짓말이
날같이 잠 아니 오면 어느 꿈에 뵈오리
-김상용(金尙容, 1561~1637)의 시조
恋すは嘘、君の御詞は嘘つきや
夢に訪れて逢ふ契り、尚更嘘や
一晩覚めたる我が姿、異人の夢に往ぬる君
-金尙容(1561~1637)
동짓달 기나긴 밤을 한 허리를 버혀 내어
춘풍 이블 아래 서리서리 넣었다가
어론 님 오신 날 밤이여든 구뷔구뷔 펴리라
-황진이(黃眞伊, 조선 중종시대)의 시조
冬至の長き夜、ひとくぎり切りとり
春風暖かき布団皮の中、十重二十重に畳み込み
人の帰り来る夜、なみなみと広げ延ばさむ
-黃眞伊(朝鮮中期、中宗年間の芸者)
묏버들 가려 꺾어 보내노라 임의 손대
자시는 창밖에 심어두고 보소서
밤비에 새잎 곧 나거든 날인가도 여기소서
-홍낭(홍낭, 조선 선조시대)의 시조
柳折り選る、送らむ人の手に
寝す人の窓の外、植ゑては見遣せ給へ
夜雨、若葉出るは我かと思ひ給へ
-洪娘(朝鮮中期、宜祖年間の芸者)

時調は19世紀まで全盛期を享受しましたが、20世紀に入って、近代西欧の自由詩の影響によって時調界は未曾有の混乱を体験するようになりました。朱子学的な世界観による自我実現と保守主義傾向の作品創作ぶりは、出版物を媒介する大衆との出合いが意味する普遍的価値秩序の拡張は、今後の時調の在り方に対して新しい変貌を要求したからです。時調においてそれまでの「歌唱」という歌い方が消えて、「紙面」中心の読む文学として生まれ変れなければなりませんでした。これをターニグポイントにしていわゆる ‘現代時調’という新しい時間的秩序が築かれるようになりました。従いまして、1906年、大韓毎日新報に発表した寺洞寓大丘女史の「血竹歌」が最初の現代時調となりますが、これは時調史における新しい意味を与えることに足りるといえます。何よりも時調は歌唱と分離して紙面を通して発表するようになったということともう一つ、歌題を付けて3首からなる意味を持って連結した「連時調」と呼ぶ様式の拡張です。時はと言えば時調はまさに音楽分野から完全な文学領域に横滑りしたわけです。脱音楽性を認めた上、これを基準ににて現代時調と規定します。形式秩序を守りつつ、印刷文化という新しいカテゴリー入った現代時調は自由詩とのヘゲモニーのせめぎ合いが続くとともに現代文学としての再評価されるためもう一つ実験期を迎えます。伝統詩歌の復興という当為性と必然性の裏側には呼び掛ける力を亡くしたアンシャンレジームの時代遅れという批判が混在していたからです。
この激動期の最中、時調が新しく位置づけたのは「天は自ら助くる者を助く」とい諺のように、崔南善・李秉岐・李殷相・金相沃・李鎬雨・李永道・鄭椀永などの綺羅星のような先覚詩人の方々の文学的業績があってのことと思います。
これらの時調の新傾向は去った王朝社会の「忠孝」思想あるいは厭世主義的自然観など切り抜けることによって比合理的な要素を排除し、独自的で実情や実感を大切にする新しい価値認識を作品の行間に移入することによって、時代に即した共感要因が復元できました。
そして、現代時調の絶頂期ともいえる70∼80年代を経て、昨今、2,000人あまりの時調詩人が活躍しています。‘時調千年’の歴史的基点の2000年に入り、“時調の国際化”というスローガンの下、時調の国際交流の足場づくりために様々な努力を行って行きたいと思います。ここで、何編かの現代時調をご紹介いたします。

문빗장 걸려 있고 / 섬돌 위엔 신도 없다
대낮은 아닌 밤중 / 이웃마저 부재하고
초목만 짙고 푸르러 / 기척 하나 없는 날은
-김상옥金相沃의 「부재」
門には海老錠 / 履き物無くした踏み石
真昼にあらざる真夜中 / 隣人の影も無し
色濃く青い草木だけ / 何の気配も無い日は
-金相沃「不在」
꽃이 피네 한 잎 한 잎 / 한 하늘이 열리고 있데
마침내 남은 한 잎이 / 마지막 떨고 있는 고비
바람도 했볕도 숨을 죽이네 나도 아려 눈을 감네
-이호우李鎬雨의 「개화」
花が咲く一葉一葉 / 天津空開け始まる
遂に咲き残りし一葉 / 最後の開花の瀬戸際
風も陽射しも息吹を止める / 自分も共に目を閉じる
-李鎬雨「開花」
사흘 안 끓여도 / 솥이 하마 녹슬었나
보리 누름 철은 / 해도 어이 이리 긴고
감꽃만 줍던 아이가 / 솥을 몰래 열어보네
-이영도李永道의 「보리고개」
三日間も炊かず / 釜は既に錆びたよ
麦踏みのあの時は / 長すぎ、耐えすぎの苦難
柿の花だけ拾う子供 / 密かに釜の蓋を開けてみる
-李永道 「麦峠」
 허구한 날 베이고 밟혀 / 피 흘리며 쓰러져 놓고
어쩌자고 저를 벤 낫을 / 향기로 감싸는지
알겠네 왜 그토록 오래 / 이 땅의 주인인지
-민병도閔炳道의 「들풀」
明けつ暮つつ苅られ踏まれ / 血を流し倒れて
何ということ我を苅った鎌を / 香りで庇うかを
今は分かる変わらぬ千代の中 / この地の主であるかを
-閔炳道「野草」
죄는 다 내가 지마 / 너는 맘껏 날아라
진초록에 끼얹는 / 뻐꾸기 먹빛 소리
외딴집 낡은 들마루 / 무너져 앉은 늙은 아비
-김일연金一鷰의 「명창」
全ての罪は私のもの / 君は思う存分飛び上がれ
青緑に振り掛ける / 呼子鳥の墨染めの声
一軒家の古い縁側 / 老ゆる我が父の座り姿
-金一鷰「名唱」

ここまで時調の概略を見渡しました。最後になりますが、時調の独自性と差別性を中心にまとめようと思います。
第一、時調は定型詩です。但し、時調の構成は三章六句十二音譜・四十五文字(3,4,3,4/3,4,3,4,/3,5,4,3)をしていますが、物理的な‘字数の型’ではなく、‘律格の型の定型’ということです。漢詩における絶句や律詩、あるいは十七文字の定型俳句や三十一文字の定型和歌のような字数律というよりは、「音步」という意味段落の内の可変性を許容する特徴のある形の定型詩をいいます。

第二、時調の三章に漢詩のルールの起承転結の類似な役割が働きかけています。要するに、初章が「起」、中章が「承」、終章の前句が「転」、後句が「結」の働きとなります。特に終章の前句では反転指向の役割を果たします。

第三、時調の原型は古時調と呼ばれる「単首」といえます。従いまして、時調美学の核心は均整と節制美にあるといえます。しかしながら、現代時調になりつつ、作家ほとんど、連時調を詠むようになっているのは否定できません。連時調創作傾向の一つは現代人の複雑な思惟を表わせるという長所もありますが、その反面、含みある古時調固有の美学が退歩という評価があるのも事実です。

第四、それにもかかわらず、時調は韓国詩歌文学の原形で、本流ということです。千年もの間、韓国人の心と美意識を守ってくれた時調は‘韓国の心’そのものです。

以上、時調をめぐる所存の一端を申し述べる機会を得まして光栄の至りと存じます。最後までご清聴いただき、有難うございました。

❚閔炳道
嶺南大学美術大学及び大学院卒業。1976年、【韓国日報】新春文芸当選。
時調集『悲しみの河上』『元曉』『ジャングッパー』の外14巻。詩集『隠し国』『ズタズタ(満身瘡痍)の唄』時調評論集『拭くほど眩しい三章の美学』『非定型の定型化』など巻。中央時調大賞・丁芸時調文学賞・嘉藍時調文学賞・OESOL時調文学賞など受賞。韓国文人協会時調分科会長・韓国時調詩人協会理事長歴任。韓国美術協会副理事長・大邱支会長歴任。現在、季刊≪時調21≫発行人。李鎬雨-李詠道時調文学賞運営委員長・(社団法人) 国際時調協会理事長。mbdo@daum.net

時調とは何か、なぜ、そしてどのように韓国を代表する伝統詩歌になったのか?

鄭基仁(チョンキイン) 東京外大氏

時調とは元々「時節歌調」(じせつかちょう)という言葉の略で、現代に置き換えると時代の流行り(はやり)歌と考えられます。従って、時代によって形式、情調、作者層が異なります。それでも本日‘時調’とまとめて呼べるのは、これらが共有している一定の形式が存在するからです。そして、この形式は平時調を基本として、旕時調、辭說時調などに区分されます。 엇시조は終章を除いた一つの句が平時調よりいくつか文字が長い時調で辭說時調は初中、終章と制限なく長い時調で、特に会話体が多く使われます。この時問題となるのは「一定の形式」というものが簡単ではないという事にあります。ここで私が俳句と比較してお伝えしたい事は‘時調’は音数律ではなく音步律の定型詩だという点です。

まず予備知識として知って置きたいのは、時調について、学問的なアプローチをした最初の人物の一人、趙潤濟という学者の存在です。この方は京成帝大で朝鮮文学を専攻し、国権復帰の後、ソウル大学で韓国文学を教えます。この方は次のように音数律を土台に時調の基本形を研究しました。

実際の時調を例で挙げて音数律について見てみましょう。例の時調を見て見ると、基本形の形にマッチしません。問題はこの時調だけではなく、多くの時調がこの基本形に合わないという例外が実際に存在するという事です。。むしろ、基本形に該当する時調の方が珍しいと言えます。何故こんな事になったのか?これらの問題の根本的な原因は俳句や和歌の観点から時調の解釈をしようとしたからです。そのため、これ以降の世代の研究者たちは違う方法で時調のリズムを研究し、これが音步律という概念(がいねん)になります。

音步は等時性が維持される単位です。またこの時調を見て見ると、一行目の「일백번」は3音節で、二行目の「넋이라도」は4音節で、これが実際、歌として歌われるときには同じ拍子で読めます。つまり、「일백번」は後ろへ長音になり、‘일백버언’という風に発音して「넋이라도」と同じ長さになるという事です。現代の歌の歌詞を1番と2番、同じメロディー上で歌った時、歌詞の音節数が1~2音節差で収まる事を思い浮かべると分かりやすいと思います。

そして後代の研究者たちはこの時調の形式と内容の関連性についても研究しました。簡単に説明しますと、一行と二行目は長い音歩と短い音歩の対比を通じて、リズムを作り、三行目はこれを破壊して緊張感をもたらした後これを解決する形式ですが、時調の内容もこのリズムに合わせて3行目で情調的な集約を見せた後それが解消される形式だという事です。(「起承転結」という言葉を思い出していただけるとわかりやすいと思います。)

次に時調の変化について、簡単に説明します。大きく分けると4つの時期に分けられます。まず最初は高麗時代の末から朝鮮初期の時期で、この当時、時調の作者層は士大夫でした。士大夫は両班階級で朝鮮時代のエリート階級になります。よく日本に置ける侍階級と比較されます。この当時、時調では大半のテーマが亡くした国高麗に対する悲しみ、新しい国家である朝鮮への気持ち、儒教的な心構えなど、国のエリートたちの心情を表し、圧縮的な形式である平時調形式を使いました。

第二の時期から興味深いのは、士大夫と一緒に妓生が時調の作者層になるという事です。この時期には‘風流’というのをテーマにしている時調が多く登場します。風流とは恋人に対する恋心や自然を満喫する気持ちを意味すると言えるでしょう。形式は圧縮的な平時調形式が多く見られます。

朝鮮後期に至ると大きな変化に向かいます。この時期の作者層には平民と 専門的に時調を歌う集団である’歌客‘が登場します。彼らの世界観が取り入れられている時調の数が多く増え、多彩なテーマと共に両班を批判する時調も登場します。この時期の時調は平時調より長い旕時調や辭說時調が登場します。この影響もあり、段々時調は下からはより積極的に風刺できて、娯楽性が強い民謡やパンソリからの挑戦をうけ、上からは伝統的なエリート文学である漢詩の間に挟まり、曖昧な立ち位置に立たされるようになります。

このような雰囲気が変化を迎えるのは植民地時代に入ってからです。植民地時代初期に朝鮮の知識人たちは日本を媒介にして西洋を学ぼうとする動きがあり、文学界も同じく西欧文学に関心を持つようになりました。東京大学、京都大学、早稲田大学などに留学して、英詩や、フランス詩を勉強しました。しかし1920年代に入ると、彼らは「時調復興運動」に励むようになります。‘朝鮮的なもの’を守ろうとし、これを甦らそうとします。

でも何故、その対象が‘時調’になったのか、その理由が気になると思います。先ほど述べたように朝鮮後期にいたると民謡やパンソリが大衆的にもっと人気を集め、エリートたちは漢詩をより高く評価していました。しかし、漢詩は中国から伝わってきたものであるため、植民地時代の知識人たちには受け入れがたいものであるのと同時に、日本に来て留学してみると、「万葉集」や「和歌」、「俳句」などを日本の特性を持つ象徴として受け入れている事を参考にして、これをベースに‘朝鮮の特性’を持っている似たような詩形式のものとして選ばれたのがこの時調だったんです。そして本日に至るまで、時調が韓国を体表する伝統詩歌形式として認識されるようになったのもこの「時調復興運動」にその起源があるとも言えるでしょう。

以上をもちまして、“時調とは何か、なぜ、そしてどのように韓国を代表する伝統詩歌になったのか?”の発表を終わりにします。特に日本との関係性に重点を置いて発表させて頂きました。同然ながら日本と朝鮮は一番近いお隣さんとして、古くから互いに影響し合うようにして交流を深めてきました。

時調と俳句、和歌もこれをよく表す一つの例だと言えるでしょう。近頃、日韓関係が色々と混乱を迎えている中、このような文化的交流を通じて互いを理解していく事で両国の関係を進捗させる事に繋がればと思います。ご清聴ありがとうございました。

HIA第21回講演と俳句大会

日 時 2019年12月9日(月)午後13時半より
講演者 ミン・ビョンド 韓国時調詩人協会会長
演題「東アジア短詩型文学(時調と俳句)」通訳有り
会 場 駐日韓国大使館
韓国文化院(東京都新宿区四谷4‒4‒10)
電話(03)3357‒5975
後 援 日本経済新聞社 ジャパンタイムズ社