台湾では戦前に日本語教育を受けた人が多く、医者、裁判官など高等教育を受けた人たちの日本語、漢文のレベルはかなり高い。1967年に呉建堂氏は台北短歌会を創立し、機関紙として「台北歌壇」を作った。黄霊芝氏は1968年夏に台北歌会に加入したが、1970年に中華民国ペンクラブ主宰の「第三回アジア作家会議」が台北で開催され、日本から川端康成を団長に、中川与一、五島茂、美代子夫妻、東早苗などが参加したが、会の終了後に東早苗氏の勧めもあり、黄霊芝がこれを受けて「台北俳句会」を結成し、主宰となった。
このとき台北歌会の人々が多く俳句会に参加したが、台湾にはもともと中学、高等学校などで俳句の教育に熱心だった教師もいた。特に台中商業学校には俳人・阿川燕城氏が教師として赴任していたので、彼の薫陶を受けた多くの俊秀を残していた。彼らが黄霊芝主宰と共に台北俳句会の興隆に大きく貢献したことは言うまでもない。
台北俳句会は創立の翌年1971年には既に「台北俳句集」第一集を刊行したが、10年後の1981年には既に57人の会員を集め、その後今日に至るまで60人前後の会員を維持している。記録では最大80人ほどの会員を集めることも出来たが、その後日本語世代が老年で病没するに連れて会員の減少が目立ち始め、やがて日本から赴任してきた日本人、赴任後日本に帰国した人、日本、アメリカなどから参加した会員も目立つようになった。
(文責:張継昭)