英作ハイク -入門-

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中国(六) 俳句事情
冬の漢俳
今田 述(葛飾吟社代表理事)

俳句でも季節で分けると冬の作品が少ないでしょうが、詩詞の世界では圧倒的に春秋の作品が多く、夏冬の作品はずっと少なくなります。詩人は冬は書を読み詩魂を蓄えることが多いのかも知れません。

ここにまず登場するのは、現代中国における俳句文学研究の第一人者、鄭民欽先生です。

2002年林岫女史の漢俳についての講演会が成城大学で開催された時、一緒に来日して通訳を勤められたので、ご記憶の方も多いと思います。彼には『奥の細道』等芭蕉の全紀行文を翻訳の他、『日本俳句史』『日本民族詩歌史』等の著書があります。 小説では井上靖の『孔子』等、最近は『源氏物語』も完訳しています。更に陳舜臣の『中国の歴史』の翻訳が進行中だそうです。 中国人が日本語で書いた『中国の歴史』を、別な中国人が中国語に翻訳するという複雑な経過をたどって『中国之歴史』が登場する模様です。

初雪 初雪   鄭民欽(ていみんきん)
初雪着薫炉, 初雪 薫炉に着す,
煮茗吹花分細乳。 茗(茶)を煮て 花を吹き 細乳を分つ。
閉門夜読書。 門を閉ざして 夜 書を読む

「炉に着す」とは炉に着火するの意です。「茶を煮て 花を吹き 細乳を分つ」とはどういうことでしょうか。茶の飲み方はいろいろありますが、ミルクを加える飲み方もあります。 そう考えるとこの表現がピタリと来ます。翻訳家の仕事は小説家の仕事と同様、忍耐を要します。時間との挑戦でもあります。ことに翻訳者はまず原書を読まなければなりません。 外は雪がしんしんと降り、夜は静かに更けて行きます。翻訳家の孤独な戦いが続きます。

同じ作者の作品をもう一首。

登楼 楼に登る   鄭民欽
我来上危楼, 我来りて 危き楼に上る,
西望蒼茫暮色愁。 西を望めば 蒼茫として 暮色愁う。
寒星烟外流。 寒星 烟外を流る。

加藤吉次先生と横浜のマリン・タワーへ上った旨の註があります。この詩の詩眼は第三句の「寒星 烟外を流る」でしょう。これは流星と見る事も出来ますが、恐らくはそうではないでしょう。 流れているのは煙だと思われます。煙が流れると、その裏にある星が流れているように見えるのです。それが暮れて行く西の世界に重なって、一層憂愁を沿えているのだと思われます。優れた詩人の感性が見えます。

文芸の国際化が進む中で、漢俳は世界各地で詠まれています。それは世界の各地に住む中国人が居て詩を詠んでいるからです。 海外をパッケージ旅行するのが精々で、海外居住生活経験の少ない日本人には、想像できない望郷の詩情にしばしば遭遇します。 その中には外国籍をとって華僑になった人もあれば、留学生もいます。ここには紹介するのはオーストラリアに住む詩人の作品です。

冬夜(四首) 冬の夜   婉冰(えんひょう)
冬冷人覓酔 冬冷く 人は酔を覓(もと)む
月匿星濃撩愁緒 月は星の濃きを匿し 愁緒を撩(たす)く
思親還未睡 親を思いて 還って未だ睡らず
雲垂寒夜長 雲垂れて 寒夜長し
霧侵重簾夢覚涼 霧は重簾を侵し 夢は涼に覚む
輪輾犬声揚 輪は輾(きし)み 犬声は揚ぐ
静処倍幽凄 静けき処は 幽凄を倍す
薄霧迷蒙雲天低 薄霧 迷蒙 雲天低し
海角潮声逓 海角 潮声逓(つた)う
宿鳥独哀鳴 宿鳥 独り哀しく鳴く
泥霑花絮暗香凝 泥霑の花絮 暗香凝る
万物春栄 万物 春栄を(のぞ)む

オーストラリア大陸は広く、北辺は熱帯で年中暑いけれど、南辺は南極海に面し夏なお冷え冷えとしています。夜空には南十字星を始め、北半球では見慣れない星座が光り、それを月が覆い隠します。 そんなときしきりに親の顔が思い出されるのです。第四首に「宿鳥 独り哀しく鳴く」とあるのは、自分のことを言っているのでしょう。 だとすると作者は留学生かも知れません。南半球の冬は北半球の夏に当たります。それだけに北半球の母国の華やぐ季節が切なく心に迫るのです。この作品は『漢俳詩人』2004年2月に採録されたものです。

李克英先生には『漢俳硯辺雑詠二十四首』があります。「硯辺」とは硯(すずり)の側、すなわち書斎のことです。その中の一首を紹介しましょう。

硯辺雑詠之四 硯辺雑詠の四   李克英(りこくえい)
青山挂玉雪 青山 玉雪を挂く
不知墨香是雪香 墨香是れ雪香なるを知らず
詩文三両行 詩文 三両行

これは書斎に掛かる名画を眺めて詠んでいるのでしょう。あまりの画の出来映えに、青山に掛かる雪の香さえ感じられるような気がするのです。 鑑賞者はそれが墨の匂いであるとも気づかないで実感に浸っています。それはそこに二・三行書かれている詩が一層連想を誘うからでしょう。優れた画、優れた詩の合作の世界です。

李克英は1936年河北省雄県の生まれ。『北京新生報』社長。中華詩詞学会、中国書法家協会の会員です。この漢俳は2004年版『踏雪集』に収録されています。 同氏は「澄霞詩詞社」という詩詞の結社の副理事長をしています。2004年北京で開催された中日短詩交流会の席上、次のように語りました。

「漢俳の句式は五七五であり、中国詞の長短句に類し、中国詩人はこの詩体を受け入れることが極めて容易です。 ・・・しかし始めた時は、私たちは漢俳について全く不案内でしたが、後に名誉社長の林岫教授について学習し、漢俳の創作上の特徴を了解してから、興味が湧いて来ました。 現在、全社の約半数以上の人が漢俳を作れ、しかも一定の水準をそなえています。詩詞社の機関誌『澄霞詩苑』も漢俳専用のページを設け、作者が才能を発揮する場を提供しました。 ・・・但し、短小の詩をうまく創作することは決して容易ではありません。器は小さいですが容量は大きいのです。私たちはこれからも引き続き努力し、交流活動を通じてレベルを向上させましょう」(『秋涼詩縁温暖抄』2005年葛飾吟社)

あれから七年、日本の詩壇や俳壇はその間、どれだけ中国詩壇との交流を果たして来たでしょうか。

日本には漢詩人という人たちがいて「漢詩」を作っています。「漢詩」という言葉は「漢民族の詩」という意味でしょうが、中国ではあまり用いません。 木山英雄氏(元一橋大学教授)は『人は歌い人は哭く大旗の前』の序で「中国ではさしづめ漢代の詩ということになってしまう」と述べています。 わが国でも明治まではあまり用いませんでした。私の手元にある明治45年刊の結社誌『随鴎集』(森槐南主宰)にも、「漢詩」の語は全く見当たりません。中国と同じく「詩」と「詞」を用いていたのです。

わが国で盛んに「漢詩」と呼称するに到ったのは何時からでしょうか?島崎藤村らが「漢字カナ交じり文」で詩を書き始め、明治30年に藤村の『若菜集』が出ました。 この種の詩を最初は「新体詩」と呼んでいたのですが、いつの間にかこれが「詩」を呼称し、従来の詩と混乱を生ずるに到ります。 明治37年2月27日の読売新聞に「読売歌壇」「読売俳壇」と並んで「漢詩壇」の欄を見ることが出来ます。 『随鴎集』のように詩壇は使用していないのに、新聞はすでに漢詩と称していたことが解ります。

明治37年といえば日露戦争が開始された年です。すでに日清戦争に勝って以来日本人は「もう中国人には何も学ぶことは無い」という不遜な態度をとるようになりました。 義和団事件以降の中国の政治や軍事の無残さ見れば、日本の民衆がそんな気分になったのも無理がないかも知れません。しかし詩詞のような文芸まで、中国人を師とせず勝手な詩風を打ち立てるというのは明らかに行き過ぎです。

詩吟という演芸もこの頃生まれました。これが詩の本質を歪曲して伝える結果になったことは見落とせません。「朗詠」とは本来どんなものでしょうか。たとえば杜甫の『春望』は中国ではどう吟じられるでしょうか。

国破山河在、城春草木深。
感時花濺涙、恨別鳥驚心。
烽火連三月、家書抵萬金。
白頭掻更短、渾欲不勝簪。

の「深」shen、「心」xin、「金」jin、「簪」zanの韻字は長く伸ばして揃えるように朗詠します。漢字の発音は全て一字一音節ですから、五言は全て五音節になります。 さらに平仄で抑揚が交互に起きます。つまり朗詠は自然と一種のメロディーを生むようになっているのです。それを日本語に書き流して朗詠しても、音楽が生ずる筈はありません。中国を師と仰いでいた明治以前には無かった芸です。

本来作詩、書、篆刻、朗吟は文人の一貫した作業でした。ところが維新以降東洋文化を軽視したため、明治末期になると旧体詩を詠める人が殆どいなくなりました。 そこで他人の詩を朗吟する芸が生れたと思われます。詩が作れない人が詩を正しく理解出来たでしょうか。そこには可成り勝手な思い込みが入る恐れがあります。

作詩を続けたサイドにも問題があります。現在「全日本漢詩連盟」という組織があり、千人ほどの会員がいるといわれています。その傘下には都道府県別の支部があります。 支部では中国へ吟行旅行したりしています。しかし折角中国へ行っても、中国の詩壇と交流はせず一人の詩人と会うこともなく帰国します。こんな勿体ない話があるでしょうか。そこには中国人に学ぶという態度は微塵も感じられません。 漢詩人は中国詩人と交流しないのが当たり前と思っているようです。当然作品の中身にもズレが起こっています。漢詩人の殆どは現代を詠みません。そしてやたらに風景描写に終始します。それは詩の形をしていても中国人から見ると詩ではありません。

詩を詠む手法を「詩法」といいますがそこにも相違があります。たとえば絶句の基本に「起承転合」という原則がありますが、現代日本では「起承転結」と誤り伝えられています。 わが国で元禄時代に上梓された『詩林初学鈔』を見ると、ちゃんと「起承転合」と書かれていて、曾ては中国の詩法がそのまま輸入されていたことが解ります。 こうしてみると、明治までの日本人の方がずっと国際的だったことが分かります。俳句とhaikuの関係は、欧米人による日本短詩の研究が進んだ結果、密接な交流が生じました。 だから常に日本の俳句を師として学んでいます。ところが漢詩人は依然不遜な態度を改めていません。曾てあった国際交流関係を取り戻すところから始める必要があります。

詩型の点でも問題があります。漢詩人の殆どは絶句しか作りません。一方中国の詩人は詩と詞を合わせ、何百という詩型を持っています。 先の李克英氏が言っていた通り、「漢俳」は長短句、すなわち詞の一種と見ることができますが、漢詩人は「詞」には殆ど関心がありません。だから「漢俳」を詠もうとはしないのです。

日中十五年戦争で、両国民が不幸な遭遇を余儀なくされた時代を別にすれば、現在ほど両国民が密接に接触するに到った時代はありません。 そして今後日本人が最も多く接触する外国人は漢民族です。いやでも日本の社会構造の中に多数の中国人を迎えなければなりません。 そんな中で日本人はもう一度中国人と「詩」を交流する時代を築くことを考える必要があります。「漢俳」が日本の俳句に影響されて生まれた民衆短詩であることを思えば、尚更でしょう。 そして現実に温家宝首相始め中国の要人が訪日すると、俳句の国に敬意を表して漢俳が献呈されています。国の代表者も、外交を司る当局も、無関心であるばかりか、マスコミもNHKの国際放送局以外は、それを採り上げていません。

こんなことになった背景には、戦後の教育が中国古典を逐次排除してきた経緯があります。俳人でも秋山牧車のように、一時代前の人はすらすらと漢俳を詠んでいました。 (『現代俳句・漢俳作品集』1994版)しかし現在中国との接触が増大し、若者の外国語選択が英語に次いで中国語となったのを見ると、中国古典を教材に再登場させることは、教育の喫緊の課題となったと思います。教育当局の迅速な反応を期待したい所です。

話は大きく「冬の漢俳」から逸れました。このあたりで再び作品鑑賞に戻ります。前にも紹介した紀鵬の作品を取り上げます。

門前雪 門前の雪   紀鵬(きほう)
(一)
満天飛白蝶 満天 白蝶を飛ばす
北国風光銀世界 北国の風光 銀世界
山野更素潔 山野 更に素潔たり
(二)
積雪碍通街 積雪 街を通すを碍す
古謡翻新衆筆写 古謡新たに翻し 衆は筆写せよ
“各掃門前雪” 「各おの掃けよ 門前の雪」

雪国の風光は実に美しいが積雪は一夜で街の通りを塞いでしまいます。それを通すには「各掃門前雪」ge sao men qian xue と歌う古い民謡の一節を書いて貼っておこうと作者は言うのです。 それがそのまま現代のエチケットになるというのです。いいですね。聞き慣れた古い民謡であれば、それが掲示されていても誰も反論できないでしょう。どんな歌謡か一寸聴いてみたいですね。詩人による温故知新の知恵です。

さて、冬と言えば最後に、中国の文化人を襲った巨大な冬に触れなければなりません。段楽三の十一首連作『残年恋愛』(破られし恋の年)をご覧ください。 「残」の字は「失う」であって日本語の「のこる」の意ではありません。ここで作者は「命長らえて経過す 数年の冬」と詠じています。

残年愛情 愛失われし年   段楽三(だんらくざん)
那年交友朋 那れの年か 友朋と交わる
鈍愚群体各難聡 鈍愚の群体 各おの聡し難し
男女結層冰 男女は 層冰を結ぶ
 
男女共郷村 男女共郷の村
水顕逐流山露 水顕れ流れを逐いて 山露(けわ)し
日久也関情 日久しくして また 情を関(ふさ)ぐ
 
情意隠心中 情意は 心中に隠し
告訴傍人会臉紅 傍人に告訴して 臉(からだ)紅きに会う
春夏又秋冬 春夏又秋冬
 
饃饃慢慢蒸 饃饃慢慢として蒸れ
雖然火熱正成型 雖然火は熱して 正に型を成す
婚前隔一層 婚前 一層を隔つ
 
明媒想結婚 明媒 結婚を想えど
階級闘争址不清 階級闘争 址(もとい)清からず
蛮山山幾侖 蛮(いまわ)しき山山 幾つを侖(おも)う
 
単位不承識 単位は識るを承せず
組織更難開証明 組織は更に証明を開き難し
求婚終不行 求婚 終に行われず
 
天条没識同 天条 同(とも)に識るを没(な)くす
尋情数九是寒風 情を尋ぬること九たびを数う 是寒風
有縁難有分 縁有れば 分れ有ること難し
 
歳月各東西 歳月 各おの東西す
窮山恋水路不通 窮山 恋水 路は通じず
想見霧蒙蒙 想い見れば 霧蒙蒙
 
道封心未封 道封ずれど 心未だ封じず
命長経過数年冬 命長らえて経過す 数年の冬
塵土退芳容 塵土 芳容を退かす
 
冬去喜回春 冬去りて 春回るを喜び
新路訪郷逢旧人 新路郷を訪ねて 旧人に逢う
純情一様親 純情 一様に親し
 
親迎笑語純 親しく迎えて 笑語純なり
腑言開閘語無倫 腑言 閘を開けど 語の倫無く
熱泪夾歓声 熱泪 歓声に夾む

組織が証明を発行しないために、純情な若者の結婚が実現せず、長い時間の後故郷を訪問して感慨にふけるという連作ですが、何が原因だったのでしょうか。 鍵は「階級闘争 址(もとい)清からず」の一句にあります。しかしこの一句は考えてもよく理解できません。とにかく二人は東西に引き離されて数年の冬を経過したことはハッキリしています。

そもそも階級闘争とは何でしょうか? 実は文革であろうと思われます。文革の10年が中国のインテリに与えた影響は巨大でした。党の中枢にいた、かの郭沫若ですら自己批判を迫られ、過去の自分の研究は全て無価値であったと述べさせられました。 段楽三の生まれは1944年ですから、文革の下放(知識人を農村へ行かせて勤労させる政策)が吹き荒れた1970年ごろは、丁度20歳代半ばであり、最も厳しい下放に遭遇した筈です。恐らくは二人を引き裂いたのは、文革であり、下放であったと思われます。

文革が誤りであったことは、近来党によって認められ、郭沫若を始め多くの文化人が名誉を回復しました。それならば「文革」と詠めばいいではないかと思わずにいられません。 しかし文革を正面から批判できるほど完全な表現の自由が果たして得られているでしょうか。こう考えると「階級闘争」の語が意味するところが解かる気がします。 文革時代の詩人の受難については、わが国でも木山英雄著『人は歌い人は哭く大旗の前』の優れた研究が生まれていますが、それも犠牲になった詩人のごく一部に過ぎません。

この連作は1~4節の恋愛、5~9節の挫折、10~11節の回顧に分けて見ることが出来ます。最後の10~11節に現代詩人の無念が語られているのではないでしょうか。


(2011年11月)